矢野の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 19:55 UTC 版)
矢野が12月15日にスウェーデンの出張から帰国した後、自宅に新聞記者が待機しているという情報があったため、自宅に帰らず京都市内のホテルに宿泊した。事態の対処について徳山理事長と相談し、徳山理事長の勧めもあって、教授職を辞任して出家することを決意した。12月17日、高谷教授は、徳山理事長から矢野が辞意を固めていることを電話で聞いた。12月18日、高谷教授は確認のため、古川教授と共に矢野を訪ねたところ、矢野は、よく考えた結果出家することに決めたからできるだけ早く辞めたい旨を語った。高谷教授は、12月19日の朝にセンターへ行って坪内所長らに矢野の決意を報告し、その日の夜に2種類の辞職願書式を矢野に渡した。矢野は縦書きの書式に従って全文自筆の辞職願を書き、坪内所長に届けてほしいことと、センターに保管されている印鑑を辞職願に押印してほしいことを高谷教授に依頼して預けた。12月20日、高谷教授は坪内所長に辞職願を渡し、センター事務局職員によって辞職願に印鑑を押印してもらった。坪内所長は、矢野を訪ね、古川教授が同席する中で、セクハラの事実の有無と辞意の確認をした。その面談において、矢野は、坪内所長宛に辞職の理由を記した書簡と、センター事務長宛に同封の『京都大学を去るにあたって』と題する文書を関係者に配布するように依頼した書簡を渡した。この際、矢野はセクハラの事実について否定した。 矢野は、12月21日に臨済宗東福寺にて居士としての修行生活に入った。12月25日には、京都新聞のコラムに『諸縁放下』という文章を寄稿した。 センターでは、12月27日の教授会と協議員会で矢野の辞職が承認され、12月31日付で辞職辞令が発せられた。 1994年(平成6年)1月26日、「セクシュアル・ハラスメント疑惑事件の徹底究明を求める大学教員の会」などの代表が東福寺を訪れ、「矢野を匿うことで事実関係の究明を困難にした。」などと追求した。福島慶道東福寺派管長は「軽率だった。」とし、矢野は1月29日に東福寺を出ることとなった。2月9日までに朝日新聞に矢野からの釈明の手紙が届き、2月11日には『AERA』のインタビューに応じた。
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