相馬重胤
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相馬重胤(そうま しげたね)
- 陸奥相馬氏第6代当主。
- 陸奥相馬氏第11代当主。
相馬重胤 (鎌倉時代・南北朝時代)

相馬 重胤(そうま しげたね、 生年不詳 - 延元元年/建武3年(1336年))は、鎌倉時代から南北朝時代の人物。陸奥相馬氏第6代当主。相馬師胤の子。相馬親胤、相馬光胤の父。孫五郎。
嫡流(下総相馬氏)の相馬胤氏や相馬師胤(重胤の父とは別人)らと所領を巡りたびたび争いを起こす中で、形勢が不利となったため、1323年、一族郎党80余騎、寺社、同行を願う百姓らとともに陸奥に下向[1]。太田川沿いに拠点を広げて小高城を築くなど勢力を拡大、陸奥相馬氏の祖となった。鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政が成立するとそれに従ったが、のちに足利尊氏が台頭するとそれに味方し、南朝方の千葉氏、下総相馬氏と対立した。子の親胤を尊氏の上京に従わせる一方で、次子の光胤を陸奥の守りにつかせ、自身は斯波家長と共に鎌倉の守備にあたったが、北畠顕家の攻撃を受け戦死した。
相馬重胤 (室町時代)
相馬 重胤(そうま しげたね)は、室町時代の人物。陸奥相馬氏の第11代当主。相馬胤弘の子。相馬高胤の父。孫次郎。治部少輔。
永享8年(1437年)、父の隠居により家督を継いだものの、永享11年(1440年)に不治の病にかかり、子の隆胤(のちの高胤)に家督を譲り隠棲し、そのまま病没した。
出典
- ^ [相馬の野馬追p8 (相馬野馬追保存会)昭和60年]
相馬重胤 (鎌倉時代・南北朝時代)
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「相馬重胤」の記事における「相馬重胤 (鎌倉時代・南北朝時代)」の解説
相馬 重胤(そうま しげたね、 生年不詳 - 延元2年/建武4年(1337年))は、鎌倉時代から南北朝時代の人物。陸奥相馬氏第6代当主。相馬師胤の子。相馬親胤、相馬光胤の父。孫五郎。 嫡流(下総相馬氏)の相馬胤氏や相馬師胤(重胤の父とは別人)らと所領を巡りたびたび争いを起こす中で、形勢が不利となったため、1323年、一族郎党80余騎、寺社、同行を願う百姓らとともに陸奥に下向。太田川沿いに拠点を広げて小高城を築くなど勢力を拡大、陸奥相馬氏の祖となった。鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政が成立するとそれに従ったが、のちに足利尊氏が台頭するとそれに味方し、南朝方の千葉氏、下総相馬氏と対立した。子の親胤を尊氏の上京に従わせる一方で、次子の光胤を陸奥の守りにつかせ、自身は斯波家長と共に鎌倉の守備にあたったが、北畠顕家の攻撃を受け戦死した。 表 話 編 歴 陸奥相馬氏 (中世)6代当主師常 義胤 胤綱 胤村 師胤 重胤 親胤 胤頼 憲胤 胤弘 重胤 高胤 盛胤 顕胤 盛胤 義胤 相馬中村藩へ
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