白滝鉱山の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/01 19:17 UTC 版)
四国では、別子鉱山・佐々礼鉱山(さざれこうざん)に次ぐ第3位、高知県では第1位だった「白滝鉱山」があった。元禄12年2月(1699)、本川銅山(大北川銅山)が、土佐藩により開炭された。 明治20年6月(1887)、窪田顕一郎・三好旦三の経営共同者より、住友家に譲渡された。大川村にあった諸鉱山である、住友家が譲渡した、樅之木、朝谷、大北川、下中久保、の鉱山は、その後、石川寿一、田中銀之助、芝清五郎、等幾多の経営者の手を経た。 大正2年(1913)、宇都宮壮十郎は、宇宝合名会社により、諸鉱山の経営を行い、経営効率の増進のため設備の近代化を推進した。自家用水力発電所を竣工し、諸鉱山の統一通称名を「白滝鉱山」とした。大正4年、大北川鉱山を渡辺祐常より買収したのを最後に「白滝鉱山」は、愛媛県川之石村、宇都宮壮十郎経営の下に掌握された。大正4年、5年、6年を含め、煙害補償について、宇宝合名会社との間に、樅の木製錬所煙害補償協定が締結された。四国中央市(旧伊予三島市)に至る、21Kmの架空索道が完成している。 大正8年3月(1919)久原鉱業株式会社(日本鉱業株式会社)に譲渡された。白滝鉱山は、日本鉱業株式会社の経営により、大規模な設備がなされ、従業員500人で、月産鉱石1万トン、製銅100トンを産出していた。白滝鉱業所は、月産1万トンの粗鉱を採掘して、長期安定黒字操業を目指していたが、昭和47年3月末での閉山となった。 昭和54年4月(1979)、鉱山跡地は全部村有地となった。その後、大川村が白滝総合開発に着手して、「自然王国白滝の里」が完成し現在に至る。
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