甲賀三郎と横溝正史
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横溝正史は大正15年に『新青年』の編集部員となったが、編集長森下雨村と甲賀は「雨村と三郎、兄弟もただならぬほどの親密さであった」という。当時、『新青年』の寄稿家達による「シャグランの会」というカードゲームの同好会があり、延原謙、松野一夫、水谷準なども会員だった。ここでも雨村と甲賀は非常に仲が良かったというが、ある頃を境に両者は疎隔をきたし、雨村は甲賀を仇敵の様に憎む仲となった。横溝は「おそらくこれといった理由などなかったのだろう」と語っている。甲賀の方ではなんとか撚りを戻そうという思いがあり、横溝を間にたてて何度か雨村に働きかけたが、「土佐のイゴッソウ(頑固者)」と呼ばれた雨村は頑として受け付けず、両者の仲は戻らなかったという。 雨村と疎隔をきたした甲賀は探偵作家仲間から離れ、長谷川伸、土師清二、松崎天民、平山芦江といった劇作家のグループに入って行った。横溝は「世間的に大人であるところのそれらの人たちと、やんちゃ坊主みたいだった三郎とでは、どうであろうかと陰ながら心配もしてみたものである」とこのときの様子を述懐している。 横溝は昭和7年夏に、雨村や乱歩の慰留を蹴って博文館退社を決意したが、このとき心配して電話をかけてきた甲賀の耳に入っているのも知らずに、電話交換台に向かって「留守だと言ってくれ」と怒鳴ってしまった。あとで交換嬢からこれを聞いた横溝はあわてたが、甲賀との縁はこれっきりとなり、「真に後味の悪い思い出となってあとまで残った」という。横溝は甲賀について「この人ばかりは戦後に生かしておきたかったと惜まれてならない」と語っている。
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甲賀三郎と横溝正史
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「甲賀三郎 (作家)」の記事における「甲賀三郎と横溝正史」の解説
横溝正史は大正15年に『新青年』の編集部員となったが、編集長森下雨村と甲賀は「雨村と三郎、兄弟もただならぬほどの親密さであった」という。当時、『新青年』の寄稿家達による「シャグランの会」というカードゲームの同好会があり、延原謙、松野一夫、水谷準なども会員だった。ここでも雨村と甲賀は非常に仲が良かったというが、ある頃を境に両者は疎隔をきたし、雨村は甲賀を仇敵の様に憎む仲となった。横溝は「おそらくこれといった理由などなかったのだろう」と語っている。甲賀の方ではなんとか撚りを戻そうという思いがあり、横溝を間にたてて何度か雨村に働きかけたが、「土佐のイゴッソウ(頑固者)」と呼ばれた雨村は頑として受け付けず、両者の仲は戻らなかったという。 雨村と疎隔をきたした甲賀は探偵作家仲間から離れ、長谷川伸、土師清二、松崎天民、平山芦江といった劇作家のグループに入って行った。横溝は「世間的に大人であるところのそれらの人たちと、やんちゃ坊主みたいだった三郎とでは、どうであろうかと陰ながら心配もしてみたものである」とこのときの様子を述懐している。 横溝は昭和7年夏に、雨村や乱歩の慰留を蹴って博文館退社を決意したが、このとき心配して電話をかけてきた甲賀の耳に入っているのも知らずに、電話交換台に向かって「留守だと言ってくれ」と怒鳴ってしまった。あとで交換嬢からこれを聞いた横溝はあわてたが、甲賀との縁はこれっきりとなり、「真に後味の悪い思い出となってあとまで残った」という。横溝は甲賀について「この人ばかりは戦後に生かしておきたかったと惜まれてならない」と語っている。
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