甲賀前挽鋸の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/25 05:11 UTC 版)
「近江甲賀の前挽鋸製造用具及び製品」の記事における「甲賀前挽鋸の歴史」の解説
1720年(享保5年)、三大寺村の福本九兵衛が京都の前挽鋸鍛冶職人、天王寺屋三右衛門に弟子入りして学ぶ。独立にあたり三右衛門から商売の差し止めを訴えられるが、京都を去り地元で前挽鋸の製造を再開し、後で正式に京都前挽鋸仲間に加入した。当初は京流として販売していたが、1873年(明治6年)以降、江州、近江、甲賀等の産地名が刻まれるようになる。明治時代後期にヨーロッパから鋼の原料が輸入されるようになり、前挽鋸も和鋼製から洋鋼製に切り替える。明治時代後期から大正時代にかけて、商業誌に広告を掲載するとともに交通網や通信網の充実もあり全国各地の金物屋に卸すようになり、最盛期を迎えた。 しかし、昭和時代に入ると、機械製材が出現し、需要が急速に減少。太平洋戦争後も製造販売を続けたが、昭和20年代末を境にほぼ取扱われなくなった。昭和40年代半ばに最後の前挽鋸鍛冶、八里平右衛門家で製造販売を終了する。
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