甲斐武田氏と山内上杉氏・長尾氏
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「甲越同盟」の記事における「甲斐武田氏と山内上杉氏・長尾氏」の解説
戦国時代、甲斐は守護・武田信虎の時代に国内統一が達成される。信虎は扇谷上杉氏・山内上杉氏の両上杉氏と同盟を結び、両上杉氏と敵対している伊勢氏(後北条氏)や駿河国の今川氏と抗争した。大永4年(1507年)に信虎は山内上杉氏とともに関東遠征を行うが、信虎は帰国すると大永5年には北条氏綱と一時的に和睦する。大永5年(1508年)に北条氏綱は山内上杉氏攻撃とため越後国の長尾為景と同調し、信虎に対しても使者の領内通過を申し出ている。同年3月10日に長尾為景は氏綱に対する贈答の使者の甲斐通過を信虎に求めるが、信虎は「長尾氏には遺恨がある」としてこれを拒絶している。これにより武田氏と後北条氏の和睦は破綻する。ただし、この時点では武田氏と長尾氏には接触が見られないため、信虎は同盟相手である山内上杉氏に配慮を示したものと考えられている。北信地域における信玄と謙信の対決は永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いを契機に収束し、信玄は対外方針を転換させると、永禄12年(1569年)には三国同盟を解消して今川氏領国の駿河への侵攻(駿河侵攻)を開始する。信玄の駿河侵攻は後北条氏との甲相同盟の解消を招き、駿河においては後北条氏と三河の徳川家康との挟撃を受けていた。
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