田原坂・吉次峠の激闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
3月1日から3月31日まで田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられた。春先で冷え込みが酷く、雨も降る厳しい状況の中で戦いは始まった。 高瀬の戦いで敗れた桐野は3月3日、党薩隊の協同隊、飫肥隊などの増援を加えた総勢約3000名で南関攻撃に向かった。薩軍は官軍の激しい抵抗を受け、協同隊隊長の平川惟一など多くの犠牲を出したが征討軍本営までわずか10km程まで進撃し、警視隊(後に別働第3旅団)参謀長の福原和勝大佐を負傷(後日死亡)させているが、翌4日未明に「薩軍田原で大敗」の誤報を受け撤退してしまう。 征討軍は日増しに戦力を増強させていた。2月25日には山県有朋参軍が、三浦梧楼少将率いる第3旅団と共に博多に到着。征討軍総督の有栖川宮熾仁親王も川村純義参軍と共に翌26日に到着している。だが、征討軍が攻勢準備のため兵力集中を図るために時間をかけた事は、薩軍にも兵力配備と守備陣地の構築に時間を稼ぐ事を可能とした。薩軍は田原を重点的に防御を固めるとともに北は味取山から野出までの各拠点に薩軍30小隊、熊本隊8小隊、佐土原隊、高鍋隊など最終的に総勢7000名を配備して待ち構えた。
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