生漉き唐紙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 03:43 UTC 版)
京から紙が越前奉書紙や鳥の子紙など高級な紙を用いたのに対して、「江戸から紙」は、西ノ内紙、細川紙、宇陀紙などを用いた。西ノ内紙は、常陸の久慈川上流地域の那珂郡の西の内で漉かれた、純楮紙で黄褐色の厚紙で、丈夫で保存性が良い紙である。水戸藩の保護の下、常陸特産の紙として江戸時代には高い評価を受け、『日本山海名物図絵』には、越前奉書・美濃直紙・岩国半紙と並んで、西ノ内紙は江戸期の最上品の紙とされている。 細川紙は、もともと紀州高野山麓の細川村で漉かれた、楮紙の細川奉書を源流としており、江戸期に武蔵野の秩父・比企・の両郡で盛んに漉かれた。細川紙では、特に比企郡小川町が有名で、「ぴっかり千両」という言葉があり、「天気さえ良ければ一日千両になる」と言われたほど繁栄し、江戸町人の帳簿用や襖紙加工の原紙として利用された。細川紙技術保存会によって今日まで技術が伝承され、昭和53年(1978年)に、細川紙の製紙技術は重要無形文化財に指定されている。 細川紙も西ノ内紙と同様に純楮の生漉き(一切他の原料を混ぜない)が特徴で、生唐(生漉き唐紙の略)と称した。宇陀紙は、大和の吉野の産の紙で、もともと国栖紙と呼ばれた楮の厚紙で、吉野郡国栖郷で漉かれたものを、宇陀郡の紙商が大坂市場に売り出し、吉野紙専門の紙問屋があって全国に売り広められて、宇陀紙の名が広まった。 「吉野紙」としては極薄様の紙で名高く、『七十一番職人歌合』に、「忘らるる我が身よ いかに奈良紙の薄き契りは むすばざりしを」とあり、奈良紙すなわち吉野の延紙(鼻紙)の薄さを「やはやは」と、みやびやかに呼んで、公家の女性たちはその薄さを愛した。また、その特性を活かして「油こし」や「漆こし」に利用されて全国にその名が知られていた。宇陀紙は、吉野ので漉かれた杉原紙(中世の武士社会に最も流通した中葉の楮紙で、本家播磨の杉原紙を各地で模造した)を源としており、江戸でも多く流通し江戸からかみに用いられた。
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