生い立ち・政界進出以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 21:18 UTC 版)
茨城県豊田郡水海道町高野の農家に、二男三女の末子として生まれる。1898年、旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)に入学(風見は入学者中最年少であり、周囲は年上ばかりだったという)。その後、家からの距離が遠かったため旧制下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)に転入する。しかし、禁令を無視して野球試合の観戦に行き、それをとがめ首謀者の取調べを行なおうとした校長への排斥運動に加わって放校となった。風見は生涯を通してスポーツ自体に関心がなかったようで、この事件は教師たちに反抗してのこととされている。 その後旧制水海道中学校(現在の茨城県立水海道第一高等学校)に編入。水海道中学校では、他校を放校されての編入ということで白眼視されたが、やがて友人もでき、同校の第1回卒業生となった。卒業後早稲田大学予科に入学。雄弁会に所属し、そこで中野正剛、緒方竹虎らと親交を持った。予科(3年制)卒業、本科(3年制)に進学、早稲田大学政治経済学部政治学科進学。 1909年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、国際通信、朝日新聞記者などを経て、1923年から5年間、信濃毎日新聞主筆として労働者や農民の側に立った論陣を張った。林千勝によると、風見は1927年(昭和2年)岡谷製糸争議に加わり、社説で共産党員と同じ運動論を連日展開した。また、同年12月から1928年1月まで「マルクスに付いて」という署名記事を信濃毎日新聞に12回連載し、共産党宣言を最大級の賛辞とともに紹介した。この長野時代、在日カナダ人宣教師ダニエル・ノーマンと家族ぐるみの付き合いをしていた。
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