理蕃警察機構の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 02:58 UTC 版)
先住民族より銃器を取り上げた後に警察官が管轄することになった「蕃地」は、もともと樟脳の原料の確保のために、総督府殖産部が管轄していた。1899年(明治32年)に樟脳専売制を開始し、製脳事業を台湾経営の主要財源に充てるべく、「蕃地」を国有化もしている。しかし「蕃地」へ入っていくには、「蕃害」と呼ばれた抵抗に遭うため、「理蕃警察」と呼ばれる独自の警察に「蕃地」の管轄が移行した。総督府中央には、警務局理蕃課に監察、整備、受産、教育、衛生、交易、蕃地開発の6つの係がおかれた。地方には警務局から直接指示を受けていた州庁理蕃課や理蕃係がおかれ、終始一貫して「蕃地」行政の全てを一元的に管轄した。「蕃地」は、行政的にも「平地」と切り離され、普通の行政法令が行われない蕃人居住の地とされ、特有の法令しかも主として特有の警察法令が行われているだけの「特別行政区」となったのである。そもそも「平地」においても、台湾警察は、「匪徒刑罰令」、「罰金及笞刑処分例」、「犯罪即決例」(警察署長などが軽罪の一部を即決できた)などの本国に見られないような苛酷な弾圧法規を有していた。「蕃地」では、「平地」の弾圧法すらも敷かれていないほど理蕃警察に大きな権限が与えられていた。理蕃警察はすべての行政を兼ねた。個々の警察官は、学校の教師にもなり、病院の医者にもなり、受産機関の技師にもなり、交易所の取引担当者にもなった。理蕃警察は、先住民族の良くも悪くも生殺与奪の権利を握っていたのである。
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