王弥暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:12 UTC 版)
この時期、漢の大将軍王弥は青州で自立を画策するようになり、青州に割拠する左長史曹嶷と連携して独立の算段を進めていた。 6月頃、石勒は蒙城を急襲し、長年に渡り漢の侵攻を阻んでいた兗州刺史苟晞を捕らえ、左司馬として取り立てた。これを聞いた王弥は石勒の功績を妬んだが、敢えてそれを秘匿して石勒へ書を送り「貴公は苟晞を捕えながらこれを殺さずに用いるとは、まさしく神威の表れですな。苟晞を公の左に据え、この王弥を公の右に据えれば、天下もすぐに治まることでしょう」と述べた。この書を見た石勒は、側に控えていた張賓に「王弥は位が重いのに、どうも下手にでているな。本当に我の為に力を尽くすつもりがあるのか」と尋ねると、張賓は「恐らく王公(王弥)は故郷の青州で自立しようとしているのでしょう。出生の地というのは誰しも心が向くものであり、明公(石勒)にも并州を思う心があるでしょう。王公が躊躇って実行に移さないのは、明公がその背後を襲うのではないかと恐れているからです。彼は以前より明公の考えを気にしており、今回の書でそれを測ってきているのです。今の内に彼を取り除かなければ、恐らく曹嶷が合流して彼の羽翼となり、後で悔やんだところでもう手遅れです。彼の側近だった徐邈は既に去り、軍勢も弱体化していますが、その勢いを見るにまだ盛んであります。ここは、誘い出して潰滅させるのが宜しいかと思われます」と答えると、石勒はこれに同意した。 その後、石勒は乞活の陳午と交戦し、王弥もまた乞活の劉瑞と対峙したが、王弥は劣勢に立たされたので石勒に救援を求めた。石勒は援軍を送る気は毛頭無かったが、張賓は進み出て「明公は王公から警戒されて計画(王弥暗殺)を実行出来ない事を、かねてより憂慮しておられました。今、天はそれを解決する好機を我らに授けられたのです。 陳午は小人であり、大敵には成り得ません。ですが王弥は傑物であり、このまま放っておけば我らの害となりましょう」と述べ、援軍を派遣して王弥を助け、油断させるよう勧めた。石勒はこれを容れ、軍を転進させて劉瑞軍を急襲し、これを撃破した。王弥は大いに喜び、これ以降石勒に警戒心を抱く事は無くなった。 10月、石勒は王弥を酒宴に誘い出すと、王弥は疑うことなく宴席に赴き、石勒により斬り殺された。石勒は彼の兵を吸収した事で、その勢力は益々精強となった。
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