玉之浦納の最期と宇久家再興とは? わかりやすく解説

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玉之浦納の最期と宇久家再興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 06:46 UTC 版)

玉之浦納の反乱」の記事における「玉之浦納の最期と宇久家再興」の解説

ところでこのころ五島というと永正4年1507年)から永正18年1521年:8月に「大永」と改元する)の15年間は「五島暗黒時代」とよばれ記録がないのである。従って玉之浦納の五島統治がどんなものであったか示す書物はない。しかし地域伝承などその様子をいくらかうかがうことができる。 戦勝した納は、福江進出せず、大宝(納の根拠地)の笹海から見上げた丘のアクン泊に広壮な館を築いて威勢示したらし。大久保日向家次は知行地である宇久島平にある大久保郷に潜伏し弘定や囲の室と連絡をとりながら三郎成長待った浪々の身にある心ある家臣たちは、主家再興の誓をたて連判状血判し時節到来待った永正18年1521年)、内応していた奈留三郎から大久保に、「玉之浦納公、宇久家を滅ぼし自ら五島統治せんとせしが、領民反逆者なりと信おかず。納公大宝館に起居動かず好機到来見たり」との諜報よせられる。 大久保は、急ぎ平戸渡り松浦興信面謁し、三郎擁して兵を起こし主君の仇を報じて主家再興を図る旨を告げ助力請うた。それに対し興信は快諾し大野源五郎定久を侍大将にし、馳走役糸屋宮内目付け太田五右衛門らを加え手勢士卒100名、兵船30隻を貸し与え宇久島集結させた。三郎は、大久保伴に宇久島入り旧家臣を集めつつ、自ら幼名祖先から伝わる次郎三郎とし、名を盛定と改名した宇久始祖平家盛より「盛」、松浦弘定より「定」)。 永正18年4月1日1521年5月7日)、宇久次郎三郎定率いる235名の軍勢宇久島出発した久賀島田之浦瀬戸で隊を二分し、岐宿の西津上陸後陸路大宝目指す部隊と盛定自身率い直接海路大宝をつく部隊にわけた。陸路部隊各地旧家臣が合流し膨れていった。両隊とも夜陰紛れ大宝接近し同時に討ち入ったこの際、玉之浦納に不満を持つ48人の玉之浦郷士も一緒に討ち入っている。 玉之浦大宝勢は地の利をもって頑強に抵抗したがやがて敗走した。玉之浦納は側近14人と三井楽へとおち、嵯峨の島に逃れたが盛定の猛追諦め、ついに自刃した。 納の奥方は盛定の父、囲の妹であるが、夫納を追い、納自刃の報を聞く三井楽自刃した。その奥方助けようとして大久保家次とその息子は納の手勢に囲まれ主家再興目前にして落命した。納以下14名は、丹奈のはまで曝し首にされ、遺骸終焉の地嵯峨の島雌岳山ろく小野神社祭られた。 現在でも玉之浦町西方寺では「たまんなさま」とあがめ、毎年命日供養している。

※この「玉之浦納の最期と宇久家再興」の解説は、「玉之浦納の反乱」の解説の一部です。
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