犠牲者についての議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 08:37 UTC 版)
「ドニエプル川の戦い」の記事における「犠牲者についての議論」の解説
ドニエプル川の戦いの犠牲者については激しい議論の対象である。いくつかの文献ではクルスクの戦いより非常に少ない数字(200,000から300,000名)と伝えている。しかし関連する戦いと巨大な戦区のために、複数の歴史家は損害がスターリングラードの戦いと同レベルまで簡単に達するか、それを越えるはずだが、スターリングラードが有名であるため、気づかれていないとしている。犠牲者数はその時間枠に依存しており、1943年のスモレンスクの戦い(これはドニエプル川の戦いにおける一種のあてにならない作戦として使用された)の犠牲者数がドニエプル川の戦いに含まれるかどうかで変化する。 ソビエト赤軍の犠牲者についてはNikolaï Shefovの「Russian fights」は戦死373,000名を含む1,500,000名としており、イギリスの歴史家、ジョン・エリクソンの「Barbarossa: The Axis and the Allies」は1943年9月26日から12月20日の間に(従って、8月26日から9月30日に行われたチェルニゴフ・ポルタヴァ作戦は含まれていない)ソビエト赤軍は173,201名が戦死したと詳細な数値を出しており、Glantz/Houseの「When Titans Clashed」では8月26日から9月30日のチェルニゴフ・ポルタヴァ作戦において全体で428,000名(戦死103,000名)が犠牲となり、9月26日から12月20日の間に全体で754,000名(戦死173,000名)としている。ドニエプル川渡河以前にさえ激しいドイツ軍の反撃があったが、これらの数値は低く見積もられ(ソ連のソースではクルスク攻撃の後だけで250,000名が戦死、負傷、捕虜として概算している)3:1というこれまでの死傷者や捕虜による数値から戦病死を含めれば+300,000名という数字も許容範囲である。 ドイツの損害を数字に出すのはより難しい。かなり強化された防衛に対するソビエト赤軍の攻撃による損失比がおよそ3:1という単純な原則(クルスクで例として使われる)から500,000名という数字が導かれる。Shefovと他のソ連、ロシアの歴史家は1,500,000名か同程度の高い犠牲者数を引き合いに出している。しかしこれはありえる数字ではなく、消耗人員の数が関係している人数と同じサイズに近いことを意味していると思われ、また、クルスクの戦いの一日あたりの犠牲者数が戦うと考えるならば、同様の条件の倍である長期戦で1,000,000名という数字が導き出される。 ドニエプル川の戦いは世界史内でも最も犠牲者の多い戦いのリスト(en)に含まれる。
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