特科中隊と零中隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:37 UTC 版)
1977年9月に発生したダッカ日航機ハイジャック事件において、日本政府は、一度は機動隊員23名の派遣を検討したものの、バングラデシュ当局に拒絶されて、結局は犯人側の要求を全面的に受け入れるかたちでの決着となった。これに対し、翌月に発生したルフトハンザ航空181便ハイジャック事件では、西ドイツ政府は犯人側の要求を容れることなく、ミュンヘンオリンピック事件を教訓に創設した特殊部隊GSG-9の突入作戦によって犯人を制圧、人質を解放した。 ダッカ事件の後、警察は従来の「特殊部隊」による、より実戦的な訓練に着手したものの、2つのハイジャック事件が異なる結末を迎えたことを契機として、政府関係者や警察上層部のあいだで、より本格的な対テロ作戦部隊の保有論が強まった。警察庁は警視庁と大阪府警察に対テロ作戦部隊の編成を下命し、警視庁では1977年10月20日より隊員の面接を開始した。そして同年11月1日、警視庁第六機動隊 特科中隊および大阪府警察第二機動隊 零中隊として、対テロ作戦部隊が発足した。 部隊創設当時、警視庁機動隊の各隊はそれぞれ6個中隊(基幹中隊4個+特別機動隊2個)編成であったことから、この特科中隊は他の機動隊にはない7個目の中隊として、「六機七中」と通称された。また1982年夏頃、警視総監により、警視庁特科中隊の名称がSAP(Special Armed Police)として認定され、「S」をあしらった紫色の部隊旗が授与された。しかし部隊自体は極秘の扱いであり、第六機動隊の隊員名簿からも名前を消される措置を受けていた。
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