父王の退位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 04:14 UTC 版)
「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世」の記事における「父王の退位」の解説
「第一次イタリア統一戦争」も参照 ナポレオン戦争後、正統主義に基づいた秩序で支配されていたヨーロッパに1848年革命という大動乱が巻き起こった。特に民族の牢獄とも呼ばれた多民族国家であるオーストリア帝国への影響は大きく、これを契機にしてロンバルド=ヴェネト王国内で反オーストリア人・反ハプスブルク家の反乱が全土で発生した。民衆と軍の双方から起こった反乱は瞬く間にミラノとヴェネツィアを押さえ(ミラノの戦い)、若き日のガリバルディも加わっていた反乱軍は、帝国からの分離とイタリア人によるイタリアの統治を求めた戦いを始めた。しかし、共和主義者と結びついていた1848年革命の軍勢への支援は君主国家にとってデメリットが大きく、周辺国の反応は及び腰であった。 そんな中、サルデーニャ王カルロ・アルベルトは唯一、反乱軍への公的支援を約束して軍勢を出陣させた。この時をもって、イタリア統一戦争の火蓋が切られた(第一次イタリア統一戦争)。ヴィットーリオも王太子として軍の一翼を預けられ、パストレンゴの戦い (it) とゴイトの戦い (en) で浮き足立つオーストリア軍を打ち破り、兵士と将校団を捕虜にした。反乱軍の歓声と共にミラノへ入城したサルデーニャ軍であったが、ここで父カルロ・アルベルトは共和主義の反乱軍の真意を疑い、同盟軍の合流を拒否するという愚行を犯した。 やがて、体勢を立て直したオーストリア軍が倍近い数で攻め返してくると、カルロ・アルベルトは反乱軍を置いて単独で出陣してしまう。ヴィットーリオも参加したクストッツァの戦い (en) でサルデーニャ軍は勇戦するものの敗れ、ミラノに後退を強いられた。そしてここに至ってもガリバルディやマッツィーニ、マニンら共和派を信用しないカルロ・アルベルトによって、反乱軍とサルデーニャ軍は各個撃破の憂き目を見る(ノヴァーラの戦い (en) 、ブレシアの戦い (it) 、ヴェネツィアの戦い (it) )。 戦争終結後、権威を失墜させたカルロ・アルベルトは存命中の退位という屈辱を受け入れ、ヴィットーリオ・エマヌエーレに王位を譲った。ヴィットーリオは3代前の君主の名を貰いヴィットーリオ・エマヌエーレ2世として即位し、難局の最中にある王国を率いていくことになる。
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