源氏重代の鎧とは? わかりやすく解説

源氏重代の鎧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 01:42 UTC 版)

楯無」の記事における「源氏重代の鎧」の解説

皇室公家においては家門表徴する宝器直系子孫相伝する慣習が行われていたが、平安時代後期以降武家においても総領家嫡流では鎧や旗など家の表徴とされる武具相伝する習慣生まれる。清和源氏嫡流代々伝えられた鎧の一つ楯無である。 『保元物語』や『平治物語』にその名が見られ平治元年1160年平治の乱の際に源義朝が黒縅の楯無を身に着け戦った後、美濃路敗走中、大雪により進むことが困難になった事から、身を軽くするために中に脱ぎ捨てたとされている。 江戸時代一説によると、それを石和五郎武田信光)が拾って甲斐武田家持ち帰ったというが、平治の乱当時に信光は幼児であり、この伝承には疑問持たれる家祖新羅三郎義光以来相伝されてきたという武田家伝承とも矛盾するまた、平治物語』の楯無黒糸威描写されているが、菅田天神社現存する武田家伝来楯無小桜韋黄返威であり、義朝着用楯無武田家伝来楯無別の物と考えられる。 これに対して南北朝時代以降武田氏惣領家甲斐武田家ではなく安芸武田家であるとする黒田基樹の説、黒田説を批判しつつも甲斐鎌倉府傘下入ったことで、室町幕府傘下惣領家である安芸武田家鎌倉府傘下惣領家である甲斐武田家分立したとする西川広平の説がある。その安芸武田家にも義光相伝の鎧が伝えられていたとされる天文10年1541年)に大内義隆重臣陶隆房安芸武田家没落させた際に接収した重宝中に義光相伝の鎧があったという。義隆は厳島神社神職棚守房顕呼び寄せて鎧の寄進申し入れ、房顕は同年5月18日にこれを受領して平重盛の鎧の例にならって宝物庫納めたとする記録がある(『房顕覚書天文十年条)。厳島神社が現在も所蔵する国宝黒韋威胴丸がその鎧とされている。

※この「源氏重代の鎧」の解説は、「楯無」の解説の一部です。
「源氏重代の鎧」を含む「楯無」の記事については、「楯無」の概要を参照ください。

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