源氏重代の鎧
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皇室や公家においては家門を表徴する宝器を直系子孫に相伝する慣習が行われていたが、平安時代後期以降は武家においても総領家嫡流では鎧や旗など家の表徴とされる武具を相伝する習慣が生まれる。清和源氏嫡流に代々伝えられた鎧の一つが楯無である。 『保元物語』や『平治物語』にその名が見られ、平治元年(1160年)平治の乱の際に源義朝が黒縅の楯無を身に着けて戦った後、美濃路を敗走中、大雪により進むことが困難になった事から、身を軽くするために雪の中に脱ぎ捨てたとされている。 江戸時代の一説によると、それを石和五郎(武田信光)が拾って甲斐武田家に持ち帰ったというが、平治の乱当時に信光は幼児であり、この伝承には疑問が持たれる。家祖新羅三郎義光以来、相伝されてきたという武田家の伝承とも矛盾する。また、『平治物語』の楯無は黒糸威と描写されているが、菅田天神社に現存する武田家伝来の楯無は小桜韋黄返威であり、義朝着用の楯無と武田家伝来の楯無は別の物と考えられる。 これに対して、南北朝時代以降の武田氏惣領家は甲斐武田家ではなく安芸武田家であるとする黒田基樹の説、黒田説を批判しつつも甲斐が鎌倉府の傘下に入ったことで、室町幕府傘下の惣領家である安芸武田家と鎌倉府傘下の惣領家である甲斐武田家に分立したとする西川広平の説がある。その安芸武田家にも義光相伝の鎧が伝えられていたとされる。天文10年(1541年)に大内義隆の重臣・陶隆房が安芸武田家の没落させた際に接収した重宝の中に義光相伝の鎧があったという。義隆は厳島神社の神職棚守房顕を呼び寄せて鎧の寄進を申し入れ、房顕は同年5月18日にこれを受領して平重盛の鎧の例にならって宝物庫に納めたとする記録がある(『房顕覚書』天文十年条)。厳島神社が現在も所蔵する国宝黒韋威胴丸がその鎧とされている。
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