源氏長者宣下の背景とは? わかりやすく解説

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源氏長者宣下の背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/16 22:36 UTC 版)

久我通基」の記事における「源氏長者宣下の背景」の解説

源通親の子供たちが薨去して各家の分立始まり、各家の第2世代第3世代となるに従い久我家村上源氏中の嫡流として確固たる地位確立できなくなってきていた。建長2年1250年)には堀川具実内大臣となったことを手始めに、文永6年1269年)には中院通成内大臣に、弘安6年には堀川基具従一位に、そして正応2年1289年)には准大臣から太政大臣に、正応5年1292年)には土御門定実従一位准大臣に、そして永仁4年1296年)には内大臣に、と相次いで従一位大臣に昇っている。通基の父通忠が大納言右大将のまま早世したことや祖父通光の所領大半久我家が引き継げなかったなかで、通基が危機感抱き村上源氏一門の中で優位性確立する事をねらい源氏長者宣下望んだであろう。しかしせっかく源氏長者得た直後に、前年即位した伏見天皇のもとに入内女御、さらに中宮となった西園寺鏱子の父である西園寺実兼大臣大将任じるため、通基は内大臣だけでなく約10年在任した右大将止めさせられてしまう。 近衛大将には通基の時代までは村上源氏一門では久我家からしか就任していないが、通基薨去2年前である嘉元4年1306年)には基具の息男である具守が右大将就任するそのような状況の中で通基の息男通雄の時代に再び所領問題発生させることになり、鎌倉時代通じて久我家困難な状況続いた一方で、通基は4人の息男公卿に昇らせることができた。嫡男の通雄は二位中将から権中納言に任ぜられ、通基自身右大将在任期間通算10年間になる。源氏長者宣下合わせて、通基は村上源氏一門の中で久我家一歩抜きん出ることができるよう着々と手を打っていたと見ることができる。

※この「源氏長者宣下の背景」の解説は、「久我通基」の解説の一部です。
「源氏長者宣下の背景」を含む「久我通基」の記事については、「久我通基」の概要を参照ください。

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