源氏長者宣下の背景
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源通親の子供たちが薨去して各家の分立が始まり、各家の第2世代第3世代となるに従い、久我家が村上源氏中の嫡流として確固たる地位を確立できなくなってきていた。建長2年(1250年)には堀川具実が内大臣となったことを手始めに、文永6年(1269年)には中院通成が内大臣に、弘安6年には堀川基具が従一位に、そして正応2年(1289年)には准大臣から太政大臣に、正応5年(1292年)には土御門定実が従一位准大臣に、そして永仁4年(1296年)には内大臣に、と相次いで従一位や大臣に昇っている。通基の父通忠が大納言右大将のまま早世したことや祖父通光の所領の大半を久我家が引き継げなかったなかで、通基が危機感を抱き村上源氏一門の中で優位性を確立する事をねらい源氏長者の宣下を望んだのであろう。しかしせっかく源氏長者を得た直後に、前年に即位した伏見天皇のもとに入内し女御、さらに中宮となった西園寺鏱子の父である西園寺実兼を大臣大将に任じるため、通基は内大臣だけでなく約10年間在任した右大将も止めさせられてしまう。 近衛大将には通基の時代までは村上源氏一門では久我家からしか就任していないが、通基薨去の2年前である嘉元4年(1306年)には基具の息男である具守が右大将に就任する。そのような状況の中で通基の息男通雄の時代に再び所領問題を発生させることになり、鎌倉時代を通じて久我家は困難な状況が続いた。 一方で、通基は4人の息男を公卿に昇らせることができた。嫡男の通雄は二位中将から権中納言に任ぜられ、通基自身の右大将在任期間は通算約10年間になる。源氏長者の宣下と合わせて、通基は村上源氏一門の中で久我家が一歩抜きん出ることができるよう着々と手を打っていたと見ることができる。
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