海防政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 16:43 UTC 版)
黒羽織党が政権を掌握した弘化末期から嘉永年間は、日本沿岸に多くの異国船が現れ、対外危機が高まった時期でもあった。日本海に面する加賀藩でも弘化元年(1844年)蝦夷沖に異国船が来航した情報が届くと、領内近海に異国船を発見した場合は直ちに届出ることを藩内に通達している。また大砲製造技術修得のため江戸に藩士を派遣し、弘化4年(1847年)には「西洋流大砲」5挺が完成した。嘉永元年4月28日(1848年5月30日)、佐渡の近海に異国船が現れ、翌日には能登輪島沖に現れた。同月直ちに藩の東境にある宮崎村(現能登町)および泊町に農民900人を動員する計画を立て、のろし場を設けるなどの策がとられた。 また外敵に対する軍備として大砲や銃の必要性が認識されはじめ、金沢近郊の打木浜などで鉄砲・大砲の試射が行われたのをはじめ、領内各地で台場が築造された。嘉永6年(1853年)に米国のペリー、ロシアのプチャーチンが来航すると、金沢郊外の鈴見村に銃砲鋳造場が建設された。ただし、鋳造場で製作された銃砲は、旧式の火縄銃であった。
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