海外修行 - ブレイク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:50 UTC 版)
1988年1月から、二度目の海外遠征に出発。カルロス・コロンが主宰するプエルトリコのWWCではベビーフェイスのスーパー・ブラック・ニンジャとして活動し、1988年2月6日にインベーダー1号からTV王座を、同年5月14日にミゲル・ペレス・ジュニアからプエルトリコ・ヘビー級王座をそれぞれ奪取した。 そんな中7月16日にブルーザー・ブロディ刺殺事件が起こり、WWCを離れフリッツ・フォン・エリックが主宰するダラスのWCCWに活動拠点を移す。そこでの活躍で、NWAのジム・クロケット・プロモーションズ(後のWCW)へスカウトされ、ギミック上はザ・グレート・カブキの息子という設定のグレート・ムタ(後述)として、ヒールのポジションで登場。当時のアメリカでの悪役人気は絶大で、スティングやリック・フレアーとの対決で活躍した。帰国後も、武藤は度々ムタとして登場した。 1990年4月に凱旋帰国。同時に赤(時折オレンジ色)のショートタイツにコスチュームを変え、やがて人気・実力ともに絶頂期を迎える(当時の実況担当の辻義就からは「セクシーターザン」「ときめきバージンレッドの熱い風」などと形容された)。 1995年2月にスコット・ノートンに敗れてスランプ状態に陥ったものの、5月3日、福岡ドームで当時最多防衛記録を樹立していた橋本真也を破って第17代IWGPヘビー級王者となった。8月15日、同じく橋本真也を破り、IWGP王者としては初となるG1 CLIMAX優勝者となった。さらに、10月9日東京ドームでの「激突!!新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争」のメインイベントでの高田延彦戦は、敢えてこの決戦用にドラゴンスクリューからの足4の字固めという古典的な技を復活させて勝利を収めた。これらの活躍が評価されて、同年のプロレス大賞MVP。なお、G1で優勝した際の副賞としてガウンを贈呈されたのをきっかけに、以後のビッグマッチにおいてガウンを着用するようになる(普段はTシャツ姿で入場)。
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