浜松オートレース場存廃問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/06 03:54 UTC 版)
「奥川裕司」の記事における「浜松オートレース場存廃問題」の解説
2005年9月、収支悪化が原因で浜松市が浜松オートレース場の廃止を検討し始めた。この時、後輩の伊藤信夫(24期、浜松オートレース場所属)とともにいち早く反対運動を展開したのが奥川であった。それは、職場を失う可能性のある選手としてというよりは、オートレースを愛する一人の人間としてといった行動で、ここでもやはり「ファン第一」の姿勢が垣間見られた。 奥川ら浜松の選手は廃止反対の署名運動を展開した。それも、従来のように来場者にのみ依頼するのではなく、自ら街頭に立って署名を願うという、従来のオートレース関係の運動では考えられないものであった。 元来、浜松ではオートレース場に良いイメージを持っている人が少なかった。浜松生まれの伊藤信夫はそのことを肌で知っていて、その意識を変えることこそが急務と考えていた。やがて、こうした街頭での活動が徐々に認知され、想像を超える数の浜松市民からの署名を得ることに成功。インターネット上での署名も多数に上り、浜松オートレース場は2006年4月から日本トーターへの5年間の期限付き民間委託が行われたのである。 オートレースの競走車専用エンジン「セア」を独占製造しているスズキの会長鈴木修が浜松オート不要論を唱えるなどの苦境にありながら存続を勝ち取ったことで、全日本オートレース選手会浜松支部の名は全国に知られることとなった。
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