浜松への復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 15:59 UTC 版)
弘化2年(1845年)、天保の改革に関する政治抗争により、浜松藩主で老中首座の水野忠邦は減封および強制隠居・謹慎が命じられた上、子の忠精と共に懲罰的に出羽国山形に左遷された。これにより、山形藩の秋元志朝が上野国館林藩へ移封、館林の正春が浜松に移封する(三方領知替え)。父・正甫の醜聞以来28年ぶりに、井上家が浜松に復帰した。 この転封に際して水野家は、領民にした借金を返さないまま山形へ行こうとしたために領民が怒り、大規模な一揆を起こした。一揆は新領主の井上家が調停して鎮めた。 旧領復帰が叶った井上家ではあるが、館林からの転封に関しては治水工事の負担と財政悪化の負担を高税率で領民に押し付け、農民の逃散を多数発生させたための懲罰である、とする説もある。
※この「浜松への復帰」の解説は、「井上正春」の解説の一部です。
「浜松への復帰」を含む「井上正春」の記事については、「井上正春」の概要を参照ください。
- 浜松への復帰のページへのリンク