浄瑠璃坂の仇討
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浄瑠璃坂の仇討(じょうるりざかのあだうち)は、寛文12年2月3日(西暦1672年3月2日)に宇都宮藩元藩士の奥平源八が父の仇である同藩元藩士奥平隼人を討った事件。筆写本や出版によって全国に普及され、講談や芝居にも仕組まれ、江戸時代における三大仇討のひとつと称された[1]。
注釈
参照
- ^ 浄瑠璃坂の仇討ちに関わった「夏目外記」について 、夏目家の由緒や系譜がわかる資料はないか。レファレンス協同データベース、2014年03月22日
- ^ a b c 深谷(1993)pp.391-392
- ^ 『中津藩史』
- ^ 新宿区教育委員会(担当 社会教育課)『ガイドブック新宿区の文化財(3)史跡』新宿区教育委員会(担当 社会教育課)、1981年3月25日、45頁。
- ^ 竹田真砂子『浄瑠璃坂の討入り』小島民雄、1999年3月31日、172頁。ISBN 9784087811698。
- ^ 『彦根藩井伊家文書』より「侍中由緒帳」
- ^ 史実では赤穂浪士は「黒い小袖」に「モヽ引、脚半、わらし」のみが取り決めで、あとは思い思いの服装でよかった(宮澤誠一『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)』三省堂、1999年(平成11年)。ISBN 978-4385359137)p166-168。
- ^ 竹田真砂子 浄瑠璃坂の討入り - 忠臣蔵への道 -(1999/3) ISBN 9784087811698 (4087811697)
- 1 浄瑠璃坂の仇討とは
- 2 浄瑠璃坂の仇討の概要
- 3 仇討ちの影響
- 4 参考文献
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