河村正彦とは? わかりやすく解説

河村正彦

河村正彦の俳句

初花や背中はみ出すランドセル
天空に万朶のひかりさくらんぼ
端折つてファイルに閉ぢる秋思かな
臍出しの乙女見逃すはたた神
雲の峰棒高跳びの棒しなる
 

河村正彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/17 07:33 UTC 版)

河村 正彦
生誕 1868年6月25日
山口県
死没 (1924-03-18) 1924年3月18日(55歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1889 - 1923
最終階級 陸軍中将
指揮 第13師団
歩兵第2旅団長
近衛歩兵第2連隊
戦闘 日清戦争
日露戦争
シベリア出兵
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河村 正彦(かわむら まさひこ、1868年6月25日慶応4年5月6日) - 1924年3月18日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

山口県出身。富田桑助の二男として生れ、陸軍一等軍吏・河村五一の養子となる。陸軍幼年学校を経て、1889年(明治22年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第2連隊付となる。1897年(明治30年)12月、陸軍大学校(11期)を卒業した。日清戦争出征のため、陸大を一時中退し戦後に復校している。1900年(明治33年)5月、ドイツ駐在となり、陸軍戸山学校教官を経て、日露戦争では、第2軍兵站高級副官として出征した。

1906年(明治39年)1月、教育総監部参謀となり、戸山学校教導大隊長、近衛歩兵第2連隊長、教育総監部第1課長、ドイツ大使館武官参謀本部付(オランダ駐在)などを歴任し、1914年(大正3年)9月、陸軍少将に進級。陸軍歩兵学校長(未赴任)、参謀本部付(オランダ駐在)、歩兵第2旅団長を経て、1918年(大正7年)7月、陸軍中将となり歩兵学校長に就任。1921年(大正10年)1月、第13師団長に親補されシベリア出兵に出征した。1923年(大正12年)8月、待命となり、翌月、予備役に編入された。

栄典・授章・授賞

位階
勲章等

親族

脚注

  1. ^ 『官報』第2576号「叙任及辞令」1892年2月4日。
  2. ^ 『官報』第1825号「叙任及辞令」1918年9月2日。
  3. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月5日。
  4. ^ 『官報』第1190号「叙任及辞令」1916年7月19日。
  5. ^ 『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。
  6. ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
  7. ^ 『官報』第2673号「叙任及辞令」1921年6月29日。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。



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