水産講習所〜渡墨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:14 UTC 版)
水産講習所製造科に入所した高碕だが、講義は当時の高等学校や高等工業学校よりもレベルが低く、退屈なものであった。しかし、1904年に日露戦争が勃発すると、軍に提供する缶詰が必要となった。講習所では缶詰製造が主要な日課となっていたため、高碕たちは各地に出来た缶詰工場に指導に行った。日露戦後は、日比谷焼き打ち事件で急先鋒として行動するなど、相変わらず無鉄砲さは健在だった。半蔵門の交番を攻撃しに行ったところ、逆に捕まってしまい、3日間ほど勾留されたこともあったという。 高碕は卒業後、三重県津市を本拠とする「東洋水産」という缶詰製造会社に技師として就職した。当時は日露戦中に乱立した缶詰工場の処理として、イワシの缶詰を米国に輸出することになり、設立されたのが東洋水産だった。しかし、米国での売れ行きは芳しくなく、事業は失敗に終わった。 1911年、高碕はメキシコの太平洋沿岸の水産調査に協力するため、メキシコに派遣されることになった。高碕はアメリカ・サンディエゴに本拠を置く「メキシコ万博漁業」という水産会社と3年の雇用契約を結び、働き始めた。 1912年、マグダレナ湾内のサンタマルガリタ島に缶詰工場が建設されることになり、派遣された。当時、島はアメリカがメキシコと契約し、米太平洋艦隊の艦砲射撃の根拠地としていたが、米墨関係が冷え込みメキシコが契約を打ち切るという運の悪い時期に工場を建設することになった。この頃は日米関係も冷え込んでいたために、高碕は島に秘密裏に日本海軍の基地を建設するために派遣されたスパイだという嫌疑をかけられたが、水産講習所時代に来日し親交のあったスタンフォード大学総長のデイビッド・スター・ジョーダンの紹介で、後のアメリカ大統領、ハーバート・フーバーの尽力によって疑いを晴らすことができた。翌1913年にメキシコ革命が起こると、高碕はアメリカに移って製缶詰工業の研究を中心に行い、翌年に帰国した。
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