歴史上のプリスカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 06:03 UTC 版)
「プリスカ (ブルガリア)」の記事における「歴史上のプリスカ」の解説
プリスカは681年から893年まで第一次ブルガリア帝国の首都だった。ブルガリアの歴史書によると、この都市は第一次ブルガリア帝国建国者のアスパルフ・ハーンにより建設され、 ゲオルギオス・ケドレノス(英語版)やアンナ・コムネナによりプリスクサ (Pliskusa) と呼ばれていた。都市の全面積は23km2であり、堀と土塁で囲まれた要塞都市だった。要塞の壁の厚さは2.6m、高さは12mだった。 プリスカは811年に東ローマ帝国により焼き払われ廃墟にされたが、東ローマ帝国軍はこの後クルム・ハーンに壊滅的な敗北を喫することになる。(プリスカの戦いを参照) 886年、ボリス1世はプリスカ書記学校 (聖ナウムが運営、893年にプレスラフ書記学校(英語版)へと名称変更)を創設した。 892年、プリスカ跡地はヴラディーミル(英語版)の異教復活の場となった。このことが彼の父であるボリス1世の怒りを買ってヴラディーミルは廃位され、代わりに第3子であったシメオン1世が周辺地域を治めることになった。シメオン1世は首都をプリスカから付近に築いた城塞都市のプレスラフ(英語版)へと移した。これは旧首都には異教を信仰するものが多く影響を免れなかったためであると考えられている。 10世紀にはプリスカの重要性はプレスラフへの権力集中とともに次第に低下していった。プリスカは969年から972年にかけてキエフ大公国や東ローマ帝国の襲撃を受け再び廃墟と化し、これ以降再建されることはなかった。 プリスカの廃墟跡は現在のプリスカ村の北3kmの地点にある。廃墟跡は現在は国立歴史建築保護区に指定されている。保護区内では廃墟にある宮殿、要塞、当時キリスト教世界において最大級の総主教大聖堂であったプリスカの大バシリカ(英語版)(875年頃)などを見ることができる。 南極・サウス・シェトランド諸島のリヴィングストン島にあるプリスカ稜線(英語版)はこの都市の名前から名付けられている。
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