歴史上のリサール記念日
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「リサール記念日」の記事における「歴史上のリサール記念日」の解説
1937年12月30日のリサール記念日の演説で、マニュエル・ケソン大統領は連邦法第184号を通じてタガログ語を国語として採用することを宣言した。第二次世界大戦中の日本の占領下で、 ベニグノ・アキノ・シニアとホセ・ラウレル大統領が参加した1942年のリサール記念日プログラムには、リサールの最後の詩ミ・ウルティモ・アディオスの日本語でのリサイタルとカリバピの発足が含まれていた。 1936年から、リサール記念日は次期大統領の就任日でもあった。歴史家のマヌエル・L・ケソン3世によると、大統領はリサールが埋葬された場所及び1946年の独立セレモニーの場所に面している独立記念スタンド(現在はキリノ・グランドスタンドとして知られている)を就任式会場として通常は選択していた。1953年の大統領選挙に圧勝した後のラモン・マグサイサイの就任式で、約30万〜50万人が式典に出席した。1973年の憲法の承認により、就任日は6月30日に移動した。 リサールが亡くなって100周年を迎えた1996年12月30日の式典のプログラムには、サンチャゴ要塞の彼の監房から処刑場所までへのリサールの最後の歩みを回顧し、その後彼の死の再現と慣習的な旗揚げが含まれていた。 2000年12月30日には(ジェマ・イスラミアの支持を得た)地元のテロリストがマニラ首都圏の5つの地域で爆破事件を起こし22人を殺害、100人を負傷させた。
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