歴史上の中国化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 06:16 UTC 版)
春秋戦国時代、蛮、戎、夷、狄などの民族が夏諸民族と雑居を始め、融合した。 西漢時、閩越が漢武帝によって滅ぼされ、100万に及ぶ閩越人が漢族区域に強制移住された。福建に残った閩越も南下した漢族に同化された。 魏晋南北朝時代から五代十国時代、匈奴、鮮卑、羯、氐、羌などの北方民族が中原入りし、その中で最も影響を及ぼしたのが鮮卑拓跋部(拓跋氏)の孝文帝の洛陽遷都であった。五代十国のうち、後唐、後漢、後晋はともにチュルク系の突厥沙陀部によって建てられた。沙陀系王朝は漢人王朝の官制を採用し、漢人を官僚に据え、また漢族と通婚をし、半世紀にも及ばない間に漢族と融合した(漢化政策)。 カール・ウィットフォーゲル以来、北魏の歴史は胡族の漢化の歴史であると説明され、その象徴として洛陽遷都が取り上げられてきたが、韓国の朴漢済(朝鮮語: 박한제、ソウル大学)は、胡族文化と漢族文化がモザイク状に融合し、胡でも漢でもない新たな文化が創出されたという「胡漢体制」を提起している。 宋、遼、金、元時代、契丹、女真、党項、モンゴル族、ウイグル族、ユダヤ人、回族などの民族が中原に流入した。元代には、契丹が姿を消し、南下した女真は漢族と雑居通婚をし、漢姓を名乗り、儒学を用い、漢化が進んだ。フビライ・ハーンも政治機構を改革し漢族の文化を導入していった。元代末には、南下した女真や党項は完全に漢族と融合した。 漢人政権を復活させた明代の朱元璋は胡服、胡姓、胡語を禁止し、中原にいる漢族以外の諸民族は差別を防ぐため、より漢姓を名乗るようになり、結果的に漢化されていった。 清代の満洲族は政治及び軍事的に中国を統治したが、統治を維持するために漢文化を導入し、言語や文化において迅速に漢化されていった。現在、満洲語を操れる満洲族は100人以下(厳密に言えば、20人から70人)とされる。
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