武将時代とは? わかりやすく解説

武将時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 07:04 UTC 版)

哥舒翰」の記事における「武将時代」の解説

突騎施族長、哥舒部の末裔。父の哥舒道元安西都護将軍であったため、安西住んでいた。母はホータン王国于闐)の王女であったという。家は富み任侠重んじていた。唐の都・長安に赴き、市場で酒や博打たしなんでいた。40歳過ぎてから父が死ぬ。安西帰らず河西行き節度使の王倕に仕えて軍功をたてた。後、王忠嗣仕えて衙将となる。 左氏春秋漢書読み大意通じていた。財産こだわらず人によく施し、士心を得ていた。吐蕃討った時に命令従おうとしなかった副将を自ら殺すような厳酷さもあった。吐蕃との戦いにおいて、自ら持って敵をうち破ったために名が響き渡った。隴右副節度使となり、唐に麦を狙って進入してきた吐蕃軍5千を伏兵使って皆殺しにしている。 哥舒翰剛勇であった落馬しながらも大声発して吐蕃の三将を押しとどめ、援軍とともに殺した説話や、逃げる敵の肩を打って振り向いたところを喉を刺して殺し左車という名の従者がその首を切ったという話が残っている。 天宝6載(747年)、王忠嗣が軍を進めなかった罪で弾劾された時には入朝して王忠嗣釈明行った一人玄宗前に出て己と官職をもってあがなう訴えている。この時に、「直道があれば、冤罪で死ぬこともないし、なければ賄賂贈ってどうにもなるまい」と語った伝えられる。ために、王忠嗣死罪免れた天宝7載(748年)、青海地方に城を築いて吐蕃破り青海に近づかせなかった。

※この「武将時代」の解説は、「哥舒翰」の解説の一部です。
「武将時代」を含む「哥舒翰」の記事については、「哥舒翰」の概要を参照ください。

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