正税の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 14:52 UTC 版)
ところが、744年に国分寺・国分尼寺造営のために、各令制国がそれぞれに正税2万束ずつの施入と出挙利息の造営費転用が命じられた。続いてその翌年には大国40万束・上国30万束・中国20万束・下国10万束を正税から割いて公廨稲が設置されて国司らの給与などにあてる出挙が正税とは別個に開始されると、国司は自己の収入につながる公廨稲の出挙に力を入れたために、結果的に地方財政が増加する一方で正税管理が疎かになり始めた。加えて朝廷も不動穀の充実振りに目を付けて本来であれば中央に上げられる上供分で賄うべき経費を正税から得ようとして、臨時に穎稲を上供させる「年料舂米」・「年料別納租穀」や大粮米を正税の穎稲で補う「年料租舂米」などが導入されたために大量の正税が中央に運ばれた。更に神火による正倉焼失 などに反映される地方政治の腐敗も深刻化して、各地の正税は急速に不足するようになった(「正税用尽」)。そこで平安時代に入ると、朝廷も公廨稲の利息(率分)より正税の不足分を補わせる「正税率分」の導入や格式に必要最低限の正税出挙に対する国司の支出義務(農民への強制的な貸付強制と徴収(返済)の義務化)を定めた「正税式数」を規定するなど、中央への上供体制維持を目的とした正税回復政策を取り始めた が、律令制の荒廃による租税・出挙未納もあり、平安時代中期には事実上崩壊することになった。
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