歌手活動:第二次大戦後
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「エディット・ピアフ」の記事における「歌手活動:第二次大戦後」の解説
戦後、ピアフは世界的な人気を得、ヨーロッパとアメリカ合衆国、南アメリカで公演旅行を行った。ピアフのアメリカでの人気は『エド・サリヴァン・ショー』へ8度も出演するほどのものであった。1947年10月のアメリカ初公演では大女優で歌手でもあるマレーネ・ディートリヒとも知友を結び、以後2人は生涯にわたる親友となった。この初公演の際にプロボクサーのマルセル・セルダンとも出会う。フランス語を話せたディートリヒは、ピアフの「ばら色の人生」を自らの持ち歌に加えて歌っている。 彼女はシャルル・アズナヴールのデビューを手助けし、自らのフランス、アメリカでの公演旅行に同伴させた。アズナブールの他にも、イヴ・モンタン、ジルベール・ベコー、ジョルジュ・ムスタキなどピアフに才能を見出された歌手は多い。 ピアフの生涯の大恋愛はプロボクサーのマルセル・セルダンとのものであるが、セルダンは1949年10月28日に飛行機事故死している。 1950年「愛の讃歌」発売。 1951年にピアフは自動車事故に遭い、その後深刻なモルヒネ中毒に苦しんだ。 ピアフは2度結婚しており、最初の夫は歌手のジャック・パル(Jacques Pills)であった。2人は1952年に結婚し、1956年に離婚した。2人目の夫はヘアドレッサーから歌手、俳優へ転身したテオファニス・ランボウカス(Theophanis Lamboukas,「テオ・サラポ」の名で知られる)であった。サラポはピアフよりも20歳も若かったが、ピアフの大ファンであったことが昂じて交際するようになり、2人はディートリヒの介添えのもと1962年に結婚した。夫であるサラポは妻ピアフの死後、妻の残した多額の借金を独力ですべて返済した。 パリの「オランピア劇場」はピアフが名声を得た場所であり、またピアフが病死する数ヶ月前に、衰弱してようやく立てるという体調でコンサートを開いた場所でもある。1963年、ピアフは最後の曲「ベルリンの男 L'homme de Berlin」を録音している。
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