歌垣と『万葉集』
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筑波山は古来より農閑期の行事として大規模な歌垣(かがい)が行われ、近隣から多数の男女が集まって歌を交わし、舞い、踊り、性交を楽しむ習慣があった。これは今年の豊穣を喜び祝い、来る年の豊穣を祈る意味があった。 『常陸国風土記』には、筑波山における歌垣について、富士山との比較で次のような話を載せている。諸国をめぐり歩く神祖尊(みおやのみこと)が、新嘗の日に富士山を訪ねた。ところが富士の神は新嘗祭で忙しいからと一夜の宿を断った。神祖尊は嘆き恨んで、「この山は生涯冬も夏も雪が降り積もって寒く、人が登れず、飲食を供える者もなくしよう」といい、今度は常陸の筑波山に行き宿を乞うた。筑波山は新嘗祭にもかかわらず、快く宿を供し、飲食を奉った。喜んだ神祖尊は、「…天地(あめつち)とひとしく 月日と共同(とも)に 人民(たみぐさ)集い賀(よろこ)び 飲食(みけみき)豊かに 代々(よよ)絶ゆることなく 日々に弥(いや)栄え 千秋万歳(ちあきよろずよ) たのしみ窮(きわま)らじ」と歌った。それから富士山はいつも雪に覆われて登る人もなく、筑波山は昼も夜も人が集い、歌い飲食をするようになったという。『常陸国風土記』の成立は養老年間(717年 - 724年)だが、既にこの頃には筑波山に男女が集う嬥歌(かがい・歌垣(うたがき))の場であったことがわかる。 『万葉集』第9巻1759番収録の高橋虫麻呂作の歌には、 鷲の棲む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 吾(あ)も交はらむ わが妻に 人も言問へ この山を 領(うしは)く神の 昔より 禁(いさ)めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 言(こと)も咎むな (現代語訳) 鷲の棲む筑波山の裳羽服津の津のほとりに、 男女が誘い合い集まって、舞い踊るこの歌垣(かがい)では、 人妻に、私も性交しよう。我が妻に、人も言い寄ってこい。 この山の神が昔から許していることなのだ。 今日だけは目串(めぐし、不信の思いで他人を突き刺すように見ること)はよせよ、咎めるなよ。 と、歌垣への期待で興奮する気持ちが素直にのびのびと詠われる。
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