歌塾「萩の舎」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 14:21 UTC 版)
名前の由来は、歌子の自宅であった池田屋の庭に萩がたくさん植えてあったことから。和歌の創作指導だけでなく、基礎的な古典文学のてほどきや、千蔭流(創始・加藤千蔭)の書を教えた。自宅で教えるだけでなく、鍋島家、前田家など上流階級への出稽古もしていた。生徒は上流階級の子女がほとんどで、1886年に樋口一葉が入門したころは、弟子は1000人以上を数えた。 当時有名な女流歌人として、歌子のほかに、税所敦子、鶴久子がいたが、税所は皇后はじめ皇室関係者、歌子が上流・中流階級の令嬢、鶴が下町の子女に教えていた。萩の舎は歌会も盛大で、貴婦人や姫君が女中連れでやってきた。 客員教授には男性歌人や官僚などもおり、鈴木重嶺、梅村のりを、加藤安彦、江刺恒久、木村正養、水野忠敬、小出粲などが講師を務めた。 生徒には、三宅花圃、伊東夏子(鳥問屋「東国屋」の娘。母親の延子も門下)、三田葆光の妹、鳥尾広子(鳥尾小弥太の娘)、乙骨牧子(乙骨太郎乙の娘)などがいた。依仁親王妃周子も歌子に師事した。
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