歌の誕生とは? わかりやすく解説

歌の誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 04:59 UTC 版)

お猿のかごや」の記事における「歌の誕生」の解説

1938年山上上京から4年過ぎて、すでにレコード2曲は発表していたものの、詩人として未だ出ないままであった。その年の9月に、山上居候していた大森義兄近所にある空き地散歩しているとき、急に曲想浮かんできたという。その時のことを山上次のように記している。 「お猿のかごや」は、昭和十三年の九月東京大義兄宅で作詞した義兄好意ころがり込んだ居候時代である。その日東京の空は、美しオレンジ色夕焼けであった。 すぐ裏に、子どもたち勝手に出入して遊ぶことのできた、近くラジオ製作工場所有空き地があったが、そこにげた履き出た私はの中をそぞろ歩きながら、夕焼け雲のかなたのふるさと思っていた。 山国生まれ育った私は、何よりも山が恋しかった郷愁は常に、山を思うことから始まった九月---、ふるさと山々は、秋なのである帰りたい。あの山に登りたい。この足で、やわらかい落ち葉踏みたい。……私の脳裏に、幼い頃から親しんだ山道が、目の前夕焼けの色を映してなつかしく浮かびあがった。 その山道を、私が歩いてゆく。……いや、いつの間にか、作曲家海沼実先生二人のである不意に何のつながりもなく、「小田原提灯」が、パサリと揺れた駕籠走った。 そのひらめきハッとして、私は現実もどった。 あたりは暗くなりかけていた。私は慌しく踵を返した与えられていた三畳の部屋に入るやいなや原稿用紙をひろげ、ペン握った。 —  山上武夫『「お猿のかごや」に寄せて』(昭和五十年三十五日) 山上はここで浮かんだ曲想元に三番目までの詞を一気書き上げた。ただし四番目はなかなか浮かばず、苦吟の末、夜更けでかかってようやく四番目を仕上げた山上は詩ができるとすぐに海沼の下に持ち込み作曲依頼した作曲の際に海沼は山上歌詞一部変更した後述)。海沼が『お猿のかごや』に曲を付けた1938年9月頃は、海沼がようやく師の草川から自分の名前で曲を公表することの許可得たであったそれ以前から山上作曲練習用として海沼から詞を求められ密かに作品提供していた。『お猿のかごや』もその一つで、生原稿直接渡していた。

※この「歌の誕生」の解説は、「お猿のかごや」の解説の一部です。
「歌の誕生」を含む「お猿のかごや」の記事については、「お猿のかごや」の概要を参照ください。

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