歌の誕生
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1938年、山上は上京から4年半過ぎて、すでにレコード2曲は発表していたものの、詩人としては未だ芽が出ないままであった。その年の9月に、山上が居候していた大森の義兄宅近所にある空き地を散歩しているとき、急に曲想が浮かんできたという。その時のことを山上は次のように記している。 「お猿のかごや」は、昭和十三年の九月、東京大森の義兄宅で作詞した。義兄の好意でころがり込んだ居候時代である。その日の東京の空は、美しいオレンジ色の夕焼けであった。 すぐ裏に、子どもたちが勝手に出入して遊ぶことのできた、近くのラジオ製作工場所有の空き地があったが、そこにげた履きで出た私は草の中をそぞろ歩きながら、夕焼け雲のかなたのふるさとを思っていた。 山国に生まれ育った私は、何よりも山が恋しかった。郷愁は常に、山を思うことから始まった。九月---、ふるさとの山々は、秋なのである。 帰りたい。あの山に登りたい。この足で、やわらかい落ち葉を踏みたい。……私の脳裏に、幼い頃から親しんだ山道が、目の前の夕焼けの色を映して、なつかしく浮かびあがった。 その山道を、私が歩いてゆく。……いや、いつの間にか、作曲家の海沼実先生と二人なのである。 不意に、何のつながりもなく、「小田原提灯」が、パサリと揺れた。駕籠が走った。 そのひらめきにハッとして、私は現実にもどった。 あたりは暗くなりかけていた。私は慌しく踵を返した。 与えられていた三畳の部屋に入るやいなや、原稿用紙をひろげ、ペンを握った。 — 山上武夫『「お猿のかごや」に寄せて』(昭和五十二年三月十五日) 山上はここで浮かんだ曲想を元に三番目までの詞を一気に書き上げた。ただし四番目はなかなか浮かばず、苦吟の末、夜更けまでかかってようやく四番目を仕上げた。山上は詩ができるとすぐに海沼の下に持ち込み作曲を依頼した。作曲の際に海沼は山上の歌詞を一部変更した(後述)。海沼が『お猿のかごや』に曲を付けた1938年9月頃は、海沼がようやく師の草川から自分の名前で曲を公表することの許可を得た頃であった。それ以前から山上は作曲の練習用として海沼から詞を求められ、密かに作品を提供していた。『お猿のかごや』もその一つで、生原稿を直接渡していた。
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