機能の拡大とその撤廃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/13 09:10 UTC 版)
1592年(宣祖26年)の壬辰倭乱の国家的危機のとき、戦争遂行のための最高決定機関として、「備辺司」の機構が強化され、大きな権限を持つことになった。その職務は、論功行賞、徴兵、軍事物資の輸送のほか、官吏の任命、妃嬪の選択などにも及んだ。 しかしながら、あくまでも「備辺司」は臨時の合議機関であり、法制化されていなかったため他の機関の権益と抵触することもあって、絶えず廃止が議論されてきた。しかし、その後も為政者にとって、大変便利な政治的装置であったために、軍事以外の様々な政治課題をも取り扱うようになっていった。 17世紀に入り、西人政権によってその機能が拡大強化され、後金との抗争の過程で、「備辺司」の堂上官に多くの権限が与えられた。粛宗の時代になって対清関係が融和へ向かうと、「備辺司」には外交や通商の役割が付加されて、その機能はさらに強化された。 備辺司の運営する賑恤庁は粛宗時代以降の唯一の法貨である常平通宝の鋳造所の一つであった。 純祖の勢道政治の時代にも「備辺司」に権力が集中し、哲宗の時代には、当初20名前後であった堂上官は、60名以上にも増員され、国政全般の政策を決定するための権力機構として機能した。 こうして、「備辺司」への権力の集中は、親族間での継承・不正の温床・売官の横行・民衆の反発などの弊害により、朝鮮後期の政治的混乱の主要な要因の一つとなった。 興宣大院君の時代に、国家機構の再整備の際、「備辺司」の機能を外交・防衛・治安関係に限定したうえ、1865年には「備辺司」は廃止された。
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