楽天イーグルス時代
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台湾球界5年間通算45勝31敗4セーブ、607奪三振の実績を引っ提げ、2006年に東北楽天ゴールデンイーグルス入団。登録名を「L・インチェ」とする。背番号は91。本人は誠泰時代と同じ背番号19を希望していたが、監督に就任した野村克也が先に19を着けたため、この背番号になった。 開幕前の3月に開催された第1回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)のチャイニーズタイペイ代表に選出された。同大会では初戦の韓国戦に中継ぎ登板している。 シーズンでは3月26日の開幕2戦目の対日本ハム戦(札幌ドーム)で日本での初登板(先発)を果たすも、4失点で5回を持たずにKOされ、敗戦投手になった。1週間後の4月1日、対ソフトバンク戦(フルスタ宮城)で2度目の先発。8回を投げ、3安打無失点の好投を見せる。しかし、リリーフ陣が打ち込まれてチームは逆転負けし、日本での初勝利はお預けとなった。その後は制球の悪さや肘の故障に悩まされ、5試合の登板で0勝2敗、防御率4.33という成績に終わる。 2007年、一軍登板4試合。同年12月に行われた第24回アジア野球選手権大会(プレ五輪)では、チャイニーズタイペイ代表として出場。対フィリピン戦で先発して7回無失点と好投し、最優秀投手賞を受賞した。 2008年、背番号を49に変更。しかし、登板はわずか5試合で、0勝2敗。防御率5.23という成績に終わった。10月5日、球団から戦力外通告を受け、在籍3年間で1勝も挙げられないまま退団した。 当時の監督である野村が後に書いた著書「あ〜あ、楽天イーグルス」によると、トレードマネーとして楽天が誠泰に1億円を払って獲得したが、台湾プロ野球の選手に1億という高額の前例は野村の中では聞いたことがなく、野村はその時点で林の実力を疑問視しており、当時の球団代表である米田純に対して騙されたのではないのかと問いただした事を同著書に書いている。
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