柏原の有力者との関係作り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
「小林一茶」の記事における「柏原の有力者との関係作り」の解説
一茶が継母、弟との遺産相続問題に取り組むようになった頃、故郷の柏原は宿場としての死活問題に直面していた。柏原は北国街道の宿場町であったが、北国街道の東隣には川東道という街道があった。当時、荷物は基本的に正規の街道を使用して輸送するというルールがあったが、北国街道を使った荷物輸送は宿場ごとの荷の引継ぎが必要で、時間をロスしてしまい何よりも手数料が嵩んでしまう。そこで川東道を使った荷物輸送が多くなってきたのであるが、荷扱いの減少に見舞われた北国街道の宿場町にとっては死活問題となる。結局、文化2年(1805年)閏8月、柏原宿など北国街道の3つの宿場町は江戸道中奉行に川東道を用いた荷物輸送を禁じるように訴えた。一方、川東道を通る荷物輸送で受益者となる17村が3宿の訴えに受けて立つことになり、訴訟は評定所吟味扱いとなって文化10年(1813年)までかかる長期訴訟が始まった。 評定所での裁判は、訴訟期間中、柏原宿の関係者は頻繁に江戸と柏原の往復を余儀なくされ、また裁判のために責任者は江戸詰めにならざるを得なくなる。訴訟関係文書の作成などの訴訟費用や関係者が宿泊する公事宿への宿泊費など多額の費用が必要であったが、宿場としては負けられない訴訟であった。江戸住まいの一茶は江戸詰めの柏原宿関係者のサポートを行い、故郷の大事のために一肌脱ぐことになる。現実問題として江戸で訴訟対応を行う柏原宿の関係者は、柏原の有力者たちであった。一茶は宿場町の存亡がかかる訴訟という機会を捉え、柏原の有力者とのコネクションを構築し、遺産相続問題を自らの有利に運ぶようにもくろんだのである。 文化5年(1808年)2月、一茶の弟の仙六は、菓子を土産に一茶宅を訪ねた。訪問の用件は一茶を祖母の33回忌に招待することであったと見られるが、江戸へ来たのは裁判の手伝いのためだったと考えられる。このように弟仙六まで江戸に駆り出される裁判であったが、3月には事実上の3宿敗訴の判決が下された。しかし文字通り宿場としての存亡がかかっていた柏原宿など3宿は、まもなく追訴を行うことになる。
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