松浦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 15:48 UTC 版)
旧社名:佐世保鉄道 区間:上佐世保 - 左石 - 実盛谷 - 四ツ指 - 佐々間・佐々 - 世知原間・左石 - 柚木間・実盛谷 - 相浦間・四ツ指 - 臼ノ浦間 買収:1936年10月1日 改軌:1945年3月1日 私鉄買収線の最後の路線である。愛媛鉄道と同じく鉄道敷設法に規定された予定線との重複による買収ではなく、1920年に帝国議会で「軽便線」として予算承認された伊万里 - 佐世保間の予定線と重複したこと、また伊万里側・佐世保側で本格的に工事が始まったことを受けて買収された。 佐世保鉄道は本線のほかに支線を4本も持っていたが、予定線との重複は実際には上佐世保 - 左石 - 実盛谷 - 四ツ指 - 佐々 - 吉井間という本線の部分だけで、他の支線は必要のないものであった。しかしいずれも短い支線であることから単独採算が取れないこと、またそれぞれの支線が運炭線として重要な役割を果たしており、国策の面からも買収すべきと考えられたことから、全路線が買収されるに至った。ただし路線名称は路線別には制定されず、総称で「松浦線」の名称が与えられた。またいくつかの駅名が改称されており、特に四ツ指駅は地名の読みが「よついび」であるのを「よつゆび」と誤解した上に字を間違えて命名したものであったため、本来の地名である四ツ井樋駅に改称された。 改軌は当初出足が遅かったが、太平洋戦争が始まると軍港・佐世保を抱えていることや運炭線であることから軍需輸送手段としての重要性が高まって急速に進展し、1943年8月30日には北佐世保-左石-実盛谷間・左石-柚木間・実盛谷-相浦間が改軌完了した。この際、上佐世保-左石間と実盛谷-相浦間は経路が変わり、起点駅が北佐世保駅に変更されている。 1944年4月13日には四ツ井樋 - 佐々間と佐々 - 吉井 - 世知原間・四ツ井樋 - 臼ノ浦間が改軌を完了した。これにより列車が吉井 - 四ツ井樋 - 臼ノ浦と運転されるようになり、世知原方面の支線はそれまでの佐々分岐から吉井分岐に変更となった。 そして1945年3月1日に相浦 - 四ツ井樋が改軌され、全線の改軌が完了している。この時には実盛谷-真申間で山廻りから海廻りへ経路変更が行われ、結果実盛谷 - 相浦間の支線が本線の一部に組み込まれることになった。また一時的に北側で本線となっていた四ツ井樋-臼ノ浦間はこの工事によって本線が全部改軌されたため、再び支線に戻っている。なお、分岐駅であった実盛谷・四ツ井樋の2駅は廃駅となった。 この改軌と同時に路線が分離され、北佐世保 - 左石 - 相浦 - 佐々 - 肥前吉井間が松浦線の一部、左石 - 柚木間が柚木線、佐々 - 臼ノ浦間が臼ノ浦線、肥前吉井 - 世知原間が世知原線として継承された。しかし石炭産業の衰微で炭鉱閉山が相次いだことから、1967年に柚木線、1971年に世知原線・臼ノ浦線が廃止。松浦線も1988年に第三セクター転換され、現在は松浦鉄道西九州線として現役を保っている。
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