東京麻糸紡績沼津工場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 04:19 UTC 版)
1944年4月には、朝鮮の慶尚南道隊100名が初めて日本(内地)に派遣され、静岡の東京麻糸紡績沼津工場に出動した。この女子勤労挺身隊は学校の教師に引率されて派遣され、終戦直後に帰国している1945年7月に工場が空襲で被災すると富士紡小山工場(静岡県駿東郡)に半島女子勤労挺身隊334人は移動した。戦後9月30日、隊員含む246人が朝鮮に帰国した。 1992年の釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(最高裁棄却)では原告3人が東京麻糸紡績沼津工場に派遣された女子勤労挺身隊だった。1997年にはじまった東京麻糸紡績沼津工場朝鮮人女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(東麻裁判)では判決で事実認定はなされなかった(最高裁棄却)。 そのほか、当時隊員だった金文善はインタビューで東京麻糸紡績の求人に応募した動機について次のように述べている。 「東京麻糸に韓国の監督さんがいて、その人が巨済島に募集にきたんです。前から、そこへ韓国の女の人がいっぱい働きに行ってたんですね。私のいとこの姉さんも行って、何年かしたらもどってきたの。そしたら、きれいな洋服着て、頭もちゃんとして、皮靴なんてはいてたんです。羨ましくて、『ああ、私も日本へ行きたい』って、思ったわけ。それで、日本へ行きたいもんだから、監督に会いに城浦(ソンポ)って町まで行ったわけ。そこの旅館みたいなところには、山奥からみんな集まってきていたんです。みんな、そこに泊まっただけでも嬉しくて、もう田舎には帰りたくない、そのまま、すぐにでも日本に行きたいなんて言ってました。 金文善は合格者は250人くらいで、沼津工場での労働は過酷であったという。また東麻裁判に対しては、原告が「働きながら学ばせる、休暇もとらせるといった事前の契約内容が守られなかった」と主張しているが、土日は休みだったし、会社の中で、夜、勉強もしたと証言している。
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