東人の分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 14:50 UTC 版)
1580年代後半、政権を握っていたのは東人であった。そんな中1589年、鄭汝立が反乱を企てたことが発覚し、朝廷では東人に代わって鄭澈を中心とする西人が実権を握った。しかし鄭澈が光海君の世子冊封を建議したところ東人から「光海君を王世子にして仁嬪金氏とその子信城君の殺害を企てている」との嘘の密告を受けて左遷され、東人は西人に対する粛清を敢行して政権を握っていった。 しかし、東人は鄭澈の処分に対する主張の相違から二派に分裂していった。鄭澈は配流で十分との穏健論を展開したのが禹性伝であった。それに対して鄭澈を死刑に処すべきとの強硬な主張をしたのが李山海だった。また、李山海は別の問題で柳正龍とも対立していた。これにより東人は禹性伝・柳正龍を中心とした南人と李山海を中心とした北人に分党した。 『南人』という呼称の由来は、柳正龍が嶺南出身であったことや禹性伝の実家が南山のふもとにあったこと、拠点が当時都であった漢城より南にあったことなどが挙げられる。 分党以降、鄭澈の処分について南人が主張する流刑が採用されたことで柳正龍や禹性伝が政権を主導していく。だが、豊臣秀吉による朝鮮出兵を契機に柳正龍が罷免されることによって北人による政権が樹立され、長く南人は在野することになった。
※この「東人の分裂」の解説は、「南人 (李氏朝鮮)」の解説の一部です。
「東人の分裂」を含む「南人 (李氏朝鮮)」の記事については、「南人 (李氏朝鮮)」の概要を参照ください。
- 東人の分裂のページへのリンク