東京メッツ時代まで
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幼少期から水泳に打ち込み、さいたま市立高砂小学校5年生のときには韓国の全国少年体育大会の水泳自由形に出場し、3位に入賞している。小学6年生のときに野球部に体験入部したところ監督に才能を見出され、ヤクルトスワローズジュニアの選抜選手となり、2005年の第1回NPB12球団ジュニアトーナメントの優勝メンバーとなった。 さいたま市立岸中学校進学後は「浦和リトルシニア」に所属。2008年の第14回日本リトルシニア野球全国選抜大会のベスト8のメンバーとなった。中学時代は元阪急ブレーブスの松永浩美が塾長を務める「M.B.A 松永少年野球教室」に通っていた。 早稲田実業高校に在籍していた2009年は1年生の時からレギュラーの座を獲得した。主にポジションは中堅手と右翼手として起用された。高校2年生の2010年に、第92回全国高等学校野球選手権大会に出場する。ポジションは中堅手で打順は3番、ベンチで験担ぎに腕立て伏せをおこなう姿から「腕立て王子」という呼び名もつけられた。甲子園大会に出場したのはこの2年生の時のみで、甲子園通算記録は3試合に出場して15打数6安打4打点0盗塁。同年秋からは主将に任命された。2011年の全国高等学校野球選手権西東京大会では打率.573を記録した。 卒業後は早稲田大学に進学して野球部に所属。1年春の早慶戦から先発出場するものの、部内の上下関係が肌に合わず、1年夏に中途で退部。東京六大学野球リーグでの出場記録は5試合で、3打数1安打。退部後は自らチームを探し、早稲田大学に在籍したままクラブチームのTOKYO METSに所属した。
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