村田亙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/20 02:20 UTC 版)
生年月日 | 1968年1月25日(57歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出身地 | ![]() ![]() |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 1.72 m (5 ft 7+1⁄2 in) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 75 kg (11 st 11 lb) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大学 | 専修大学 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ラグビーユニオンでの経歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
村田 亙(むらた わたる、1968年(昭和43年)1月25日 - )は、日本の元ラグビー選手、元専修大学監督。
経歴
福岡市城南区出身。小学校1年から地元の草ヶ江ヤングラガーズでラグビーを始めた[1]。
当初はフルバックだったが、福岡市立城南中学校時代からスクラムハーフに転向。東福岡高等学校ではスタンドオフも経験したが、2年時から再びスクラムハーフとなり、花園(全国高等学校ラグビーフットボール大会)に出場した[1]。
専修大学ラグビー部4年時には主将として関東大学リーグ優勝に貢献[1]。
大学卒業後、東芝府中に入社。1996年(平成8年)度からの日本選手権3連覇に貢献した。
1990年(平成2年)には、U23日本代表としてアメリカ代表に勝利。
1991年(平成3年)のアメリカ代表戦で日本代表初キャップを得る[2]。ラグビーワールドカップには第2回大会(1991年)スコットランド代表戦、第3回大会(1995年)ニュージーランド代表戦、第4回大会(1999年)ウェールズ代表戦の3度出場している。日本代表キャップ数は41。
1999年(平成11年)、フランスリーグのバイヨンヌとプロ契約し、日本人初のプロ選手となった[3][4]。デビュー戦でいきなり2トライを挙げるなど、フランスリーグでは44試合出場し7トライを挙げ、チームの中心選手として活躍した。
2001年(平成13年)にヤマハ発動機ジュビロに移籍。2002年(平成14年)度には関西社会人リーグ初優勝を果たす。
2005年(平成17年)には37歳で日本代表に復帰し、ロス・トンプソンが持っていた最年長出場記録を更新した[注釈 1]。またトップリーグにおいても一時期最年長出場記録を持っていた(40歳)[注釈 2]。
2008年(平成20年)1月、2007-08シーズンをもって現役引退することを表明。2月2日東芝戦後に引退セレモニーが行われ、同い年の親友で、同じ磐田市をホームとするジュビロ磐田の中山雅史選手から花束を贈呈され、お互いのユニフォームを交換した[7][8]。
2008年(平成20年)2月、日本ラグビー協会より7人制日本代表監督の要請を受け就任。同年3月の香港セブンズで初指揮を執った。同年の10月には、やはり香港で行われたラグビーワールドカップセブンズ予選で、日本代表を、2009年(平成21年)3月にドバイで行われる本大会への出場に導いた[9]。
2012年(平成24年)から2023年2月まで[10]の11シーズンOBである専修大学ラグビー部の監督を務め[11]、同大学は2014年に13年ぶりの1部復帰を果たした[12]。しかし2021年にはリーグ全敗、入替戦にも敗戦し在籍期間で2度目の2部降格。翌年の2022年シーズンでの1部復帰は叶わず、監督を退任[13][14]。
所属
- 1975年(昭和50年) ~ 1983年(昭和58年) - 草ヶ江ヤングラガーズ
- 1980年(昭和55年) ~ 1983年(昭和58年) - 福岡市立城南中学校
- 1983年(昭和58年) ~ 1986年(昭和61年) - 東福岡高等学校
- 1986年(昭和61年) ~ 1990年(平成2年) - 専修大学
- 1990年(平成2年) ~ 1999年(平成11年) - 東芝府中
- 1999年(平成11年) ~ 2001年(平成13年) - バイヨンヌ(フランス)
- 2001年(平成13年) ~ 2008年(平成20年) - ヤマハ発動機ジュビロ
- 2008年(平成20年) ~ 2012年(平成24年) - 7人制日本代表監督
- 2012年(平成24年) ~ 2023年(令和5年)2月 - 専修大学ラグビー部監督
脚注
注釈
出典
- ^ a b c “初のプロラグビー選手・村田亙が作った「海外移籍」の道 日本人でも世界に通用することを証明した (2ページ目)”. 集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva (2025年3月19日). 2025年3月20日閲覧。
- ^ “初のプロラグビー選手・村田亙が作った「海外移籍」の道 日本人でも世界に通用することを証明した (2ページ目)”. 集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva (2025年3月19日). 2025年3月20日閲覧。
- ^ “初のプロラグビー選手・村田亙が作った「海外移籍」の道 日本人でも世界に通用することを証明した (3ページ目)”. 集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva (2025年3月19日). 2025年3月20日閲覧。
- ^ “レジェンドが語るTOP14の魅力。〜村田亙編〜”. Rugby Republic (2016年9月15日). 2023年6月5日閲覧。
- ^ “ラグビー歴代最多キャップ 頼れる男・大野均 写真特集”. 時事ドットコム. 2024年6月27日閲覧。
- ^ “ラグビーの楽しさと「ノーサイド」の精神を伝えていきたい”. 日経BP. 2024年6月27日閲覧。
- ^ “村田亙選手引退セレモニー - ラグビー愛好日記 | J SPORTSコラム&ニュース”. news.jsports.co.jp. 2025年3月20日閲覧。
- ^ “asahi.com:ラグビー・村田、引退セレモニー 40歳のゴン送る - スポーツ”. www.asahi.com. 2025年3月20日閲覧。
- ^ JRFU. “2008年度 7人制日本代表監督に村田亙氏が就任|日本ラグビーフットボール協会”. www.rugby-japan.jp. 2025年3月20日閲覧。
- ^ “専大の新監督に石倉俊二氏就任。スピアーズ率いた指導力でFW強化、1部復帰目指す”. Rugby Republic. (2023年3月2日)
- ^ rugby2011 (2012年1月27日). “村田亙氏が専修大監督就任 5年以内の1部リーグ優勝目指す - ラグビーリパブリック”. 2025年3月20日閲覧。
- ^ “ラグビー - 専修大学・村田亙監督 気配り、目配り、原点に帰って再挑戦の11年目 | 4years. #学生スポーツ”. 4years (2022年3月20日). 2025年3月20日閲覧。
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2023年3月1日). “元日本代表の村田亙氏退任 専大ラグビー部、石倉俊二コーチが昇格”. サンスポ. 2025年3月20日閲覧。
- ^ “Re-challenge”. 村田亙オフィシャルブログ (2021年12月25日). 2024年6月27日閲覧。
関連項目
- 田口浩正(俳優、東福岡高時代の同級生)
外部リンク
![]() |
---|
固有名詞の分類
- 村田亙のページへのリンク