本遠寺開山までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/29 04:39 UTC 版)
晩年の徳川家康が最も寵愛した養珠院お万の方は天正5年(1577年)に生まれ、17歳で家康(51歳)の側室となる。22歳の時に日蓮宗信徒の養父母を亡くし仏教への帰依を深めた。慶長9年(1604年)行学に優れた心性院日遠が33歳で身延山久遠寺に晋山すると、お万の方はその高名を知り日遠に師事した。 慶長13年(1608年)徳川家の菩提寺である浄土宗増上寺の学僧・廓山と、当時は日蓮宗不受布施派だった京の妙満寺27世・日経が江戸城で宗論(慶長宗論)を交わし、日経が敗れた。すると徳川家康は日蓮宗の各山寺院に、日蓮が他宗を折伏するために唱えた「四箇格言」の一つ「念仏無間」は経典にない空論だという誓状を提出するよう迫った。総本山身延の22世であった日遠は、誓状の提出を拒み再宗論を求めて抗議したため、謀反者にされ安倍川の河原で磔刑に処される事となった。これを知ったお万の方は、師事した日遠と共に自らも処刑されると徳川家康に願い出た。家康はお万の方の信仰心と覚悟を知り日遠を赦したという。 その後、日遠は刑余の身をはばかり身延山を出て大野の庵で隠棲。お万の方は二人の子供、紀州の徳川頼宣と水戸の徳川頼房に命じて大野に大伽藍を寄進させた。これが今の本遠寺となる。
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