本宿陣屋の柴田家
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勝門が陣屋を置いた本宿は、古くからの東海道沿いの交通の要地であり、古刹法蔵寺の門前町でもあった(本宿町参照)。徳川家康は幼少時に法蔵寺で手習いを学んだという。 柴田家の知行地支配については、本宿の有力者であった冨田家が代官職に任じられ、以後世襲した。正徳4年(1714年)に冨田善太夫庸久が「陣屋預かり」となり、その跡を継いだ冨田元右衛門重庸が享保7年(1722年)に陣屋隣に屋敷を移した。冨田家5代目の冨田群蔵常業が文政10年(1827年)に建て替えた代官屋敷が現存しており、2018年にリノベーションがなされてレストランになった。 勝門のあと、柴田家の家督は勝富-勝定-勝曠-勝満と続き、勝満の末期養子として柴田勝房(勝富の子で坂本家の養子となった坂本直鎮の子)が迎えられて跡を継いだ。勝房は柴田家祖先の追慕を行っており、旗本柴田家初代勝重の墓のある春清寺に、柴田家の由緒をまとめた文書を納めている。 幕末期の当主は柴田勝全で、明治元年3月12日に勤王証書を提出した。勝全はその後、勝誠に家督を譲った。柴田勝誠は上京して明治元年11月に新政府から「本領安堵」されたものの、与えられたのは年貢徴収権のみで、村方支配は最寄りの府県に属するとされた。柴田家知行地の帰属は三河県と静岡藩の間で複雑な動きを見せることになるが、明治2年に静岡藩に上知された。 代官を務めていた冨田家は、陣屋の敷地を受け継ぎ、跡地に医院を開業している。 旗本柴田家および代官冨田家はそれぞれ史料を残している。
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