朝倉教景とは? わかりやすく解説

朝倉教景(あさくら のりかげ) 1477~1555

小太郎 太郎左衛門尉 宗滴沙弥
◇父:朝倉小太郎孝景(敏景) 養子朝倉景紀
 越前・朝倉氏一族若くして仏門にはいるが、一族豊の謀反から朝倉宗家救い、その功で敦賀郡司となる。以後加賀の一向一揆相手戦い、あるいは近江若狭美濃各地転戦し朝倉家重鎮として晩年まで活躍する1555年79歳の老躯総大将として加賀一向一揆戦い陣中にて発病一乗谷にて亡くなった彼についてはその死後彼の従臣萩原八郎右衛門尉宗俊が「宗滴夜話」をまとめた。

朝倉教景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 07:12 UTC 版)

 
朝倉教景
時代 室町時代
生誕 康暦2年/天授6年(1380年
死没 寛正4年7月19日1463年9月2日
改名 幼名:又太郎または小太郎[1]、教景
別名 孫右衛門尉、美作
戒名 心月宗覚
墓所 心月寺
幕府 室町幕府
氏族 朝倉氏
父母 父:朝倉貞景
兄弟 教景、頼景、ほか1名
家景将景、僧、僧、娘(織田久長[2]?)
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朝倉 教景(あさくら のりかげ)は室町時代中期の武将である。朝倉氏5代目当主。

生涯

教景は越前の守護である斯波氏被官の立場にありながら、室町幕府の命により度々関東に出兵していた。第4代鎌倉公方である足利持氏永享の乱を引き起こすと、永享10年(1438年)8月、駿河守護今川範忠甲斐守護武田信重信濃守護小笠原政康らと共に出兵し、この乱を収めている。さらに結城氏朝持朝父子が持氏の遺児春王丸安王丸を擁して結城合戦を引き起こすと、再び関東に出兵した。この結城合戦の際、教景は春王丸・安王丸を生け捕りにする戦功を立てている[3]

この戦功により、嘉吉元年(1441年)に結城合戦が収まると教景は6代将軍足利義教から「教」の偏諱を賜り、「教景」と名乗るようになったという(『 朝倉始末記』)。また、『朝倉家記』によれば、この時一緒に「美作守」を拝したとされる(「将軍御感悦有て御諱字を被下、拝美作守依教景と名乗る」)。

早くして亡くなった嫡子・家景に代わり、嫡孫の孝景(英林孝景)を補佐した。寛正4年(1463年)死去、享年84。

菩提寺である心月寺福井県福井市)は、孝景による創建である。

脚注

  1. ^ 『朝倉始末記』
  2. ^ 大龍山洞雲寺(大野市)蔵の「朝倉系図」によると、朝倉教景の娘に「織田弾正忠久長室、(織田)敏定母」とあることから。
  3. ^ 水藤 1981, p. 4.

参考文献




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