月距法の成功とマスケリン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 02:42 UTC 版)
「経度の歴史」の記事における「月距法の成功とマスケリン」の解説
クロノメーターを使用した測定と月距法による測定のどちらでも経度を求める見込みが出てきたが、経度委員会がより期待をかけたのは月距法のほうであった。なかでもネヴィル・マスケリンは月距法に傾倒し、マイヤーの表をもとに研究を続けた。そして1761年、金星の日面通過の観測のためセントヘレナ島へ向かい、その時に月距法を用いた経度測定を行った。日面通過の観測は天候の関係で上手くゆかなかったが、経度の測定には成功した。これによりマスケリンは月距法に対する信頼を深め、1763年、マイヤーの理論を元にした『英国航海者ガイド』を出版した。1765年、マスケリンの本を参考にして経度を測定した4人の船員は、全員が、誤差は1度以内だったと証言した。ただしこの方法は計算が厄介で算出するのに4時間かかることが難点であった。 一方でクロノメーターH-4を使用した2度目の試験航海も1764年に行われた。この時にH-4で測定したポーツマス-バルバドス間の経度は、木星衛星の食を使って求められた値と比較され、その誤差は8.5地理マイルであった。これは経度法の規定を3倍以上上回る高い精度であった。 委員会は、H-4の性能についてはようやく認めたが、ハリソンが賞金を全額受け取るには、今までのクロノメーターを全部提出し、そしてH-4の機構を公開したうえで、複製を2個作らなければならないと要求した。こうしてハリソンと経度委員会の関係は悪化していったが、1765年にマスケリンがグリニッジ天文台長に就任したことで、委員会のハリソンに対する圧力はさらに強まることとなった。 また、マスケリンは天文台長に就任した翌年から、『航海暦(The Nautical Almanac)』を毎年出版した。『航海暦』には3時間ごとの月と太陽の位置が記されていた。このマスケリンの活動により、月距法を使った経度測定は使い勝手が良くなり、算出にかかる時間も4時間から30分に短縮された。
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