月形プロ設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:08 UTC 版)
1928年(昭和3年)、『忠魂義烈 実録忠臣蔵』で清水一角を演じた後、3月にマキノを退社し、マキノとの配給提携を条件にツキガタプロダクションを設立(会社登記のミスで正式にはプロタクション)、芸名も月形陽候に改名した。プロダクションには井上金太郎や悪麗之助らも参加している。同プロでは全部で8本の作品を製作したが、翌1929年(昭和4年)、『剣士・沖田総司』を終作にプロダクションを解散。松竹と実演契約を結び、一党を引き連れて松竹系劇場を巡演後、8月に一党と松竹下加茂撮影所に入社。芸名も月形龍之介に戻し、自らの企画で『斬人斬馬剣』『白野弁十郎』『弥藤太昇天』に主演。中でも伊藤大輔が監督した『斬人斬馬剣』は、百姓一揆を真正面から扱った作品で、「傾向映画」の代表作として名作との呼び声が高い作品である。 1931年(昭和6年)5月、トーキー映画の製作を目指して再び独立、月形プロダクションを立ち上げ、奈良県の生駒山に撮影所を構えた。第1作は直木原作・冬島泰三監督の『舶来文明街』だが、映音システムの録音機の不備でパート・トーキーとなり、興行的にも失敗。しかし、キネマ旬報ベストテンに第5位でランクインされるという、高評価を得ている。翌1932年(昭和7年)にはオール・トーキーで『暁の市街戦』を製作するが、この2作で15万円の負債を抱え、プロダクションは解散した。
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