曹洞宗第三の本寺としての隆盛と衰退とは? わかりやすく解説

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曹洞宗第三の本寺としての隆盛と衰退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 21:29 UTC 版)

正法寺 (奥州市)」の記事における「曹洞宗第三の本寺としての隆盛と衰退」の解説

1348年(貞和4年)、無底良韶(むていりょうしょう)は、天台宗古刹として知られ黒石寺奥の院曹洞禅道場建てた。これが東北地方初の曹洞宗寺院正法寺始まりである。 無底は、これに先立つ1342年(康永元年)に師である峨山韶碩(がさんじょうせき)から、開祖道元中国から持ち帰ってきた袈裟僧伽梨そうかり)」を授けられている。これは、道元から峨山まで、連綿と伝承されてきたものであって、これを授けということは峨山門派を無底良韶が継承することを示唆していた。正法寺開創されて2年後1350年(観応元年)に崇光天皇が、「出羽奥州両国における曹洞第三本寺」として、住職紫衣着用許された。 その後1361年(康安元年)、13年歳月経て跡を継ぐ門弟がないまま無底良韶が死去。そのため、師の峨山が、弟弟子月泉良印げっせんりょういん)に正法寺を継がせた。このとき、「正法寺末代まで奥羽両州曹洞本寺たるべし」とする書状月泉良印与えている。月泉は40年わたってその住職をつとめ、正法寺発展基礎をきずいた。月泉良印秋田郡松原名刹補陀寺をひらき、北出羽にも曹洞宗の教線を拡大した東北地方曹洞宗の拠点ができたことによって、布教進み月泉良印は「月泉四十四資」といわれる弟子輩出することとなる。岩手県南部宮城県中心に次々末寺開かれることとなり、その数は508とも1200とも言われた。出羽国出身道叟道愛どうそうどうあい)は、兄弟子にあたる無底・月泉を補佐し、月泉に先立って世を去ったが、正法寺経済基盤確立するなどその功績大きく正法寺第3世として崇敬されている。 1615年(元和元年)の幕府法度により、本寺の格を失い、現在は72末寺を持つのみである。

※この「曹洞宗第三の本寺としての隆盛と衰退」の解説は、「正法寺 (奥州市)」の解説の一部です。
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