曹叡の下で
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黄初7年(226年)5月、曹丕が亡くなり曹叡(明帝)が即位すると、王朗は蘭陵侯に昇進し、500戸の加増を受け、所領が1200戸となった。曹叡に対しても、労役や出費の軽減を具申した。同年12月、司徒に転任となった。曹叡が後継に恵まれないことを憂慮する上奏をしたところ、曹叡から感謝された。 王朗は儒学に通じ、『易経』・『春秋』・『孝経』・『周礼』の伝(注釈)を著した。このため上奏や議論などの著述の全てが世に伝わった。正始6年(245年)、曹芳(斉王)の代に王朗の『易伝』は、官吏登用の受験科目として採用された。また、蜀にいた旧知の許靖に手紙を送り、諸葛亮に臣従を促すよう依頼しようとしたが、許靖が既に死去していたため返答はなかった。後に諸葛亮は、陳羣ら他の魏の高官からの降伏勧告の手紙とまとめ、『正議』と題して反論を公表している。 太和2年(228年)11月に死去。諡号は成侯。曹丕の時代に、その所領を分割して一子が列侯され、さらに王朗の願いにより甥も採り立てられている。 子は、王朗が会稽太守であったときに生まれ、後に司馬氏へ接近し司馬昭に娘(王元姫)を嫁がせている。 正始4年(243年)秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には王朗も含まれている(「斉王紀」)。
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曹叡の下で
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黄初7年(226年)5月、曹丕が亡くなり曹叡(明帝)が即位すると、王朗は蘭陵侯に昇進し、500戸の加増を受け、所領が1200戸となった。曹叡に対しても、労役や出費の軽減を具申した。同年12月、司徒に転任となった。曹叡が後継に恵まれないことを憂慮する上奏をしたところ、曹叡から感謝された。 王朗は儒学に通じ、『易経』・『春秋』・『孝経』・『周礼』の伝(注釈)を著した。このため上奏や議論などの著述の全てが世に伝わった。正始6年(245年)、曹芳(斉王)の代に王朗の『易伝』は、官吏登用の受験科目として採用された。また、蜀にいた旧知の許靖に手紙を送り、諸葛亮に臣従を促すよう依頼しようとしたが、許靖が既に死去していたため返答はなかった。後に諸葛亮は、陳羣ら他の魏の高官からの降伏勧告の手紙とまとめ、『正議』と題して反論を公表している。 太和2年(228年)11月に死去。諡号は成侯。曹丕の時代に、その所領を分割して一子が列侯され、さらに王朗の願いにより甥も採り立てられている。 子は、王朗が会稽太守であったときに生まれ、後に司馬氏へ接近し司馬昭に娘(王元姫)を嫁がせている。 正始4年(243年)秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には王朗も含まれている(「斉王紀」)。
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