暴力団員・部落解放同盟支部長として
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「飛鳥会事件」の記事における「暴力団員・部落解放同盟支部長として」の解説
大阪府高槻市の被差別部落に生まれ育った小西邦彦は少年院や刑務所を経て山口組系金田組組長金田三俊のボディガード兼運転手になったが、上田卓三の後ろ盾を得て、1969年6月、飛鳥支部第1回定期大会で部落解放同盟大阪府連飛鳥支部の支部長に選出された。支部長就任の動機について、2006年10月6日の大阪地裁における小西邦彦の初公判の検察側冒頭陳述では「同和問題が大きな社会問題となっていたことから、暴力団構成員よりも金もうけがしやすく、絶大な権力が手に入るなどと考えたためである」と指摘された。当時小西は酒梅組の元組員である西成支部長と共に部落解放同盟行動隊の双璧の強腕とされていた。 その後小西は1970年代後半に山口組を脱退したが、それ以降も山口組関係者との交際は依然として継続し、金田組の組長から時おり電話がかかってくると別人のように直立不動になり、組長から指示を受けていた。また山口組系生島組組長の生島久次とは古い付き合いがあり、1985年1月27日の山一抗争で、山口組四代目組長竹中正久が愛人宅で射殺された時には、現場となったマンションの名義人として浮上し、部落解放同盟大阪府連の委員を辞任。しかしその後も部落解放同盟から除名されることはなく、飛鳥支部の支部長として留任した。 また小西は山口組若頭時代の渡辺芳則に5,000万円を献金したこともある。のちに中野会会長の中野太郎の仲介で組長になったの渡辺と2回にわたり面談し、元ヤクザのための福祉事業を立ち上げようとしたが実現しなかった。1990年頃には茨木市の病院に入院中の小西が元暴力団員の飛鳥会職員らに拉致され、5億円を要求される事件も起きている。1997年9月15日には山口組と中野会の抗争が飛び火した結果、部落解放同盟飛鳥支部や飛鳥会の入居する小西所有のビルに5発の銃弾が撃ち込まれる事件が起き、新聞各紙に「部落解放同盟支部に発砲」と報じられた。中野と交際が深い小西への敵対勢力からの脅しと見られた。
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