暴力事件の多発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 05:54 UTC 版)
「1932年7月ドイツ国会選挙」の記事における「暴力事件の多発」の解説
選挙戦中、各党の私兵組織による暴力事件がいつもにも増して多発した。ナチ党の突撃隊や共産党の赤色戦線戦士同盟のような過激な私兵団はもとより、社民党の国旗団のような比較的穏健な私兵団も頻繁に暴力事件に関わった。 左右両派の武装部隊はほぼ毎日のように街頭に繰り出しては街頭闘争を行った(特に週末)。統計資料によれば1932年6月中旬から7月中旬の1か月間にプロイセン州だけで街頭闘争による死者は99人、負傷者は1125人を数えた。 7月17日、アルトナで警察の許可を得て行進していたナチ党のデモ隊が共産党の根城である労働者街に入ったことで抗争となり、デモ隊を護衛していた警官隊と共産党の銃撃戦になり、通行人などが巻き込まれて18名が死亡する事件が起きた(「アルトナ血の日曜日(ドイツ語版)」)。この事件を受けてパーペン内閣は7月18日にも野外での集会と行進を禁止したが、これによって政治的暴力事件が終息することはなかった。つづいて7月20日にパーペン首相はプロイセン州政府の命令違反を理由にプロイセン・クーデタ(ドイツ語版)(Preußenschlag)を起こし、ヴァイマル共和政派の牙城となっているプロイセン州政府を解体した。パーペンはラジオ演説の中で「プロイセン政府は共産党テロ集団に対抗措置を取る用意がない」と述べてこのクーデタを正当化した。7月24日には共産党本部カール・リープクネヒト・ハウス(ドイツ語版)が占領されているが、共産党の激しい抗議を巻き起こし、7月26日には非常事態破棄により取り消された。 こうした事件を通じて高まっていた共産党に対する警戒感は明らかにナチ党に有利に働いた。ナチ党は街頭闘争によって「自分たちこそが共産党のテロに対抗できる唯一の秩序要因」であることを宣伝していた。
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